「さようなら民主主義」独裁のフン・セン政権弾圧の全貌 第一章:民主主義の死
カンボジア

「さようなら民主主義」独裁のフン・セン政権 弾圧の全貌〜PKO派遣から25年 今カンボジアでいったい何が起きているのか〜
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【【【 】】】民主主義の死
世界の国々、特にカンボジアの国民は、日本に大きな期待を寄せていた。
「(次の選挙でもし政権が奪われるようなことがあれば)戦争をすることも厭わない」という発言をしたフン・セン首相は、欧米諸国からの支援など必要ないと強硬な姿勢を見せている。「バックに中国がいるから」と識者は口を揃える。
カンボジアと中国の絆は深まり続ける一方で、中国以外の国で、フン・セン首相が耳を傾ける国は、他ならぬ、日本だ。
カンボジアの政治活動家はこう言う。
「昔から継続して支援し続けてきた日本しかない。その日本しか、今のカンボジアを動かすことはできない」
しかしその期待は裏切られるものになった。アメリカやEUは選挙支援を打ち切ったものの、日本は、選挙支援に80億円を拠出した。
資金のみならず、人の犠牲を出し、カンボジアを支援してきた理由は、たった一部の人間の富を築くためにあったのだろうか。
日本に入ってくるうわべだけの情報で、カンボジアの民主主義を否定したくなかった。だから私は2018年7月、総選挙に合わせて、故郷に帰るような気持ちでカンボジアに足を踏み入れた。
それでも民の声を聞けば聞くほど、「民主主義の死」を肌で感じるようになった。身体から力が抜けていくような感覚だった。
いったい民主主義とはー。
5年前の熱気はまるで幻想だったかのように、カンボジアで暮らす人々は、急速に、政治に、そして社会に関心を失っていた。
カンボジアは、いつものようにお店が入れ替わり、街は変貌を遂げている。中国からの投資はより一層加速している。変わらないことといえば、首相だけだろうか。
フンセン首相の在任期間は、33年に及ぶ。東南アジアでは最長、世界でも3番目になる。政権が長ければ当然、汚職も増える。カンボジア最大の問題ともいえよう。世界、196カ国中、173位というデータも出ている。
2018年、7月―。
この日を待ちわびていた市民に、以前の輝きはなくなっていた。
「投票なんていかないよ」
「興味ない」
友人のカンボジア人に片っ端から聞いたが、返ってくる答えはいつも同じだった。
「友達は外国に逃れたから投票はいけない」
命の危険を感じて国から逃亡したという。
実際に、選挙の数か月前、SNSで政権を批判した人間が、投獄された。珍しいことではない。
国全体が恐怖で支配され、今や、「誰も政治のことは口にできません」と口を揃える。
カンボジアの総選挙は5年に1度行われる。第1回は、1993年、UNTAC・日本が主導のもと行われ、投票率は、90パーセント近くに及んだ。
選挙活動が始まってから、カンボジアはさして大きなニュースはなかった。
当然といえば、当然かもしれない。
「穏便に終わらせたい」
これが政府与党の思惑だった。普段は、賄賂探しに忙しい警察官も、なりをひそめていた。
与党が圧勝することなど、誰の目にも明らかであった。
関心は急速に失われていた。
最大野党党首の逮捕
2017年11月の出来事だった。
最高裁判所は、最大野党CNRPが米国と共謀して国家転覆を企てたとし、解党を命じた。
大躍進を続けていた最大野党CNRPは、与党の指示によって、法の下、解党を命じられた。そして、解党後、その議席は、政府与党・人民党に配分された。
「裁判所や警察、軍隊、メディア、全てが与党寄り。トップはフンセン首相の家族や関係者ばかりだからですよ」
政府関係者はこっそりと漏らす。
政府、警察、軍隊、裁判所がいったいとなった民主主義国家、カンボジアならではである。
最大野党の排除を受けて、米国と欧州連合(EU)は選挙の資金援助を中止した。さらに、米国は「民主主義の後退」に関わっているとする政府幹部らの渡航ビザ発給禁止を発表した。
解党される前から、すでにその兆候はあった。
2017年、CNRPの元党首・サムレンシー氏に逮捕状が出された。
「国家を転覆させようとした罪」だ。
サムレンシー氏は、2013年の総選挙で躍進し、フン・セン政権に危機感を与えた最大の立役者だった。
逮捕状が出されたサムレンシー氏は、国外に逃亡するほかなく、党首の座を降りた。代わりに、党首となったのは、のちに逮捕されることとなるケム・ソカ氏だった。
2017年9月―
「地に落ちた」
英字紙・カンボジアデイリーは、一面で、野党党首のケム・ソカ氏の逮捕をこう報じた。またも、「国家転覆罪」だった。
深夜二時、公安がケムソカ氏の家に押しかけた。その後の展開の想像は容易である。
ケム・ソカ氏の逮捕を受け、アメリカやフランス、イギリス、ドイツ、カナダ、オーストラリアなど各国が公式な声明を発表し、カンボジア政府に対して適切な対応をとるよう促したものの、日本は公式声明を見送った。
政府は追い打ちをかけるかのように、ターゲットを絞って弾圧を繰り返していった。野党の国会議員は次々と国から逃げ出さざるを得ない状況に陥った。
国会議員、118名が、5年間の政治活動停止となり、「いつ自分が逮捕されるのだろうか」という恐怖が議員間で蔓延していた。
アメリカ下院は、フンセン首相など、16人の閣僚に対するアメリカへの入国禁止や資産凍結を行う法案を可決した。
ケム・ソカ氏の逮捕に続き、10月3日、同じく最大野党の副党首であるム・ソクア氏に逮捕勧告が出た。
ソクア氏は、カンボジアの国会議員でも珍しい女性議員であり、女性の人権問題や権利向上に尽力してきた。
「国民から非常に人気のあるソクアさんが逮捕となると、カンボジア人はもう諦めて国を出ていくかもしれませんね」
カンボジアの縫製工場で働く女性をはじめ、国民の間で人気を集めており、女性のリーダーとして国を引っ張ってきたソクア氏の国外逃亡は、実際に国民の哀しみを生んだ。
ソクア氏は出国後、日本経済新聞のインタビューにこう答えている。
「公正な選挙実施などに向け、日本を含む援助国に「ビザの発給制限や技術援助の休止などの制裁に踏み切るべきだ」
「国際社会が中国にマヒさせられてはならない。日本などが結集し(民主的な政治を求める)声を発してほしい」
「援助国が支援を続けることは政権を後押しするのに等しい」
「援助の休止で民主主義の優先順位の高さがはっきりする」
「国民が投票をあきらめてしまう事態をとても恐れている」
今でも思い出す。
5年前、「この国は変わる」という市民の期待感が街とネット上にあふれていた。2013年のカンボジア総選挙は、大きな希望と困惑の入り乱れた選挙になった。
与党一強だったフンセン首相率いるカンボジア人民党が、初めて野党に脅かされたのだ。
野党第一党であるCNRPは、国民の若年層に絶大な人気を誇るサムランシーが党首であった。
CPPの得票率49%に対し、CNRPは45%まで迫った。
「私たちも意思を表明していいんだ」
クメールルージュの影響か、自らの考えを表に出すことをタブーとされて生きてきた人たちに、希望の光が灯った。2017年、地方選挙にて、CNRPはさらに躍進した。政権交代を期待し、迎えた総選挙。その期待は、絶望に変わり、そして無関心へと変わっていった。
✳︎
少しばかり私の紹介をさせていただきたい。
2012年、大学2年生のとき、初めてカンボジアに降り立ったときのことは今でも鮮明に覚えている。
服が熱をもち、気がつけばバッグに入れていた水がお湯と化すほどのうだうだした暑さと、各国の色が混じり合い、生きるためにむき出しとなった人間の欲望が、真っ直ぐに伝わってくる匂い。
単なるボランティアだったが、その空気と人柄に惹きつけられ、「この国をもっと知りたい」と直感し、国際NGOのカンボジア駐在インターンに応募、採用され、大学を休学し、人身売買や児童売春問題に取り組むNGOで働いた。
初めての海外長期生活、毎日刺激的な毎日。しかし、どこかで満たされない想いを抱えていた。
「私がいてもいなくてもこの国にとってはどちらでもいいのでは?」
カンボジアのために何かしようと当時の私なりに、様々な人間を説得し、大学を休んでまで飛び出してきた。しかし、それは自分本位でしかなかった。
「この国は、この国民の意思で十分に発展してきている」
毎日のように「先進国の上から目線ほど、虚しいことはない」と事実を突きつけられた。カンボジア人は、驚くほど優秀、かつ、お金に困っているわけではない。格差は大きいが、「地雷」「貧困」そうしたイメージは払拭されるほど、街は活気付き、Wifiなど生活のインフラは日本よりもはるかに充実している。朝、7時出社であった私の勤務先でも、カンボジア人の同僚たちは、決して遅刻することはない。
助けようという上から目線は、全くなくなっていった。むしろ私がこの国に育てられている感覚だった。だからこそ間違いなく、私にとっては、思い入れのある国になった。現地語もほどほどに理解できるようになっていた。
そこから毎年のように、カンボジアに通った。NGOの限界を感じたこと、私の志に変化が生まれたことで、ジャーナリストを志すようになり、学生時代から、見よう見まねで取材活動を重ねていった。
ある一つの出来事もきっかけだった。
NGOの仕事を終え、2014年に日本に戻り、メディアの仕事をしていた。
そこで、ゲストとしてきた外交に精通している政治家が、カンボジアの政治家と交流した際の危機的状況について外交の観点から話していた。その映像に、私の大好きなカンボジア人たちの姿はなかった。
気が狂ったように、憎しみの全てをぶつけるように国会議員をとことん踏みつけ、殴打していた。その映像の背景を調べていけばいくほど、事態は深刻であるとともに、
「ああ、私はこれまで何をやっていたんだろう」
と落胆した。
落胆していたのには理由がある。カンボジア人のこんな姿、私は現地に住み、現地の大学に通っていたのに、自分で深く現場に入り込んだこともなかった。何度も言うが、眼鏡をかけて「なんとなく」カンボジア社会を見ていた。
常に隣り合わせにあるスラム街、ゴミ山、売春、そんな問題について、少しばかり知っていただけで、政治がどう絡んでいたかなど、私には想像もつかなかった。
国際協力という大義をふりかざしていた自分を思い出す。
「結局理不尽な問題を解決したいなんてうそっぱちだったんだ・・・」
表面しか見ていなかった自分に対する怒りと、悔しさを晴らすためにリベンジしたかった。
そしてもう一つ、取材を重ねていく根底にあるものは、カンボジア人の切なる願いだった。
「この国がなくなってしまうよ…。どうにかしてくれよ」
その大地に根付く人々のはにかんだ顔の裏側にある事実を知れば知るほど、数々の疑問と怒りと悔しさが私の心に積み上げられていった。
「どうして、私の大好きな国が、そして私たち日本人が、血を流し、復興してきたこの国が、一部の人間のために、多くの人間が悲しみに暮れなければならないのだろう。亡くなった高田晴行警部補、同い年である中田厚仁さんは、この国の今の状況のために死んでいったわけじゃないはず」
プノンペンには、過去に大量虐殺が行われた場所を展示している博物館や、キリング・フィールドと呼ばれる虐殺地があり、多くの外国人が観光スポットとして訪れている。
日本人の多くはご存知だとは思うが、カンボジアは、クメール・ルージュと呼ばれる大量虐殺が行われたという歴史的事実を持つ国である。
当時の首相・ポルポト氏が築いた政権では、約4年間で三〇〇万人のカンボジア人に死をもたらした。第二次世界大戦の日本の戦死者数をはるかに上回る。さらには人口が六〇〇万人の国で、である。
「大虐殺」と簡単に一言で表してしまいがちだが、多くのカンボジア人にとっては、口にできない過去の事実である。
中でも、印象に残っている著書は、朝日新聞のスター記者だと言われていた本多勝一氏「検証 カンボジア大虐殺」には生々しい証言と記録がこう残されている。
「薄暗くなりはじめた六時頃、兵隊たちは名簿を見ながらある家族の名を呼んだ。その一家全員が出ると老人や幼児以外はうしろ手に縛られた。兵隊らは全員を穴のふちに引き立て、かがむような姿勢をとらせておいて、次々と撲殺した。竹の根元の部分やクワが凶器だが一撃が失敗すると短刀の類をノドや腹に突き立てた。小雨が降り続き、暗くなってゆくなかで、流れ作業の撲殺はどんどん進行した。静まり返った空気をふるわせて、クワなどを打ちおろすにぶい音、「アヤー」といううめき声、ときにはアヨーイ(痛い)という叫び声も聞こえる。」
クメール・ルージュが崩壊したあとに、現在の首相、フン・セン氏が国を安定させた。現在は、政権を奪って、三五年近くになる。最初の選挙では敗北したのにも関わらず、高圧的に奪いとったという信じがたい歴史をもつ。
カオスと呼ぶのにふさわしいこのカンボジアに、一九九二年、日本はPKO、国連平和維持活動を派遣した。
公正な選挙にするべく各国からおくられたこの部隊は、なんとか無事任務を終えたように思われているが、日本人にも犠牲者が出ている。
民間警察として派遣された高田晴行さん、国連ボランティアの中田厚仁さん。
ポルポト派は、選挙協力を拒否しており、様々な外国人を標的に、命を奪っていった。彼らの必死な活動を知れば知るほど、その無念さが伝わってくる。
日本とカンボジアは、古くから親交のある国なのだ。
カンボジアに出会ってから6年。幾度となく足を運んだ。
その間、
「いつまでニュースバリューのないカンボジアを追いかけているの?」と何度も卑下された。
反論はできなかった。それでも、私には言葉では追いつかない、まるで取り憑かれたようにカンボジアを追いかけたくなる衝動が抑えきれなかった。
「国家が」「民主主義が」
そんな大義なんてなかった。
「友達のためになにかしたい」
それだけだった。しょせん、遠い国の出来事だ。当事者でもなんでもない。日本にいれば、カンボジアのことなど忘れ、日常に戻っている。
それでも、私はこうも思う。
「誰かが現場にいなければ、その人たちの生きざまはなかったことになってしまう。忘れ去られてしまう。だから、せめて私にできることは、記録することだ」
しかし、私には何もできなかった。この国が堕ちていくことをわかっていながら、なすすべはなかった。野党の党首を逮捕し、大手メディアを倒産させ、国家を自由に牛耳っている人たちに、私は少しの抵抗もできなかった。
日本では起こりうるはずのない現実が、同じ民主主義国家、法治国家で、立て続けに起きていった。私は、友人たちとお茶を飲みながら、ため息ばかりついた。発する言葉さえ見つからなかった。
民主主義は「音を立てず」、崩れていった。「民主主義」を叫ぶ前から、静かに、その足音は聞こえていた。しかし、それは一部の人だけに。
✳︎
民主主義の土壌が消え去り、しかし、民主主義の根幹である投票を直前に迎えたカンボジアに、いったい足を運ぶ意味があるのだろうか。
そう自分に問うたが、私は即座にカンボジア行きを決めた。私自身、この場所に民主主義を考えるヒントがあるような気がした。現場に落ちているかけらを探し求める感覚であった。
街をいつものようにバイクで駆けずりまわり、人の生活を垣間見、市井の人々と遊んでいた。その合間にこっそりと問いかける。
「今回の選挙は行くの?」
「野党は解党されたけどどう思ってる?」
「名前は出さないでくれ」
「その話はしないでくれ」
友人たちが口をそろえる。
これほどまでに敏感だとは思わなかった。
もちろん、選挙期間中、政治活動は行われていた。
しかし、友人はこう言う。
「強制的に参加させられているんです」
「なぜ?」
「お金をもらっているか、働いている会社の上司や会長からの命令です」
嫌いなのに、与党の政治活動に参加している?
疑問は募るばかりだ。
ある人は言う。
「選挙活動に参加してもらえば、皆、Facebookにあげる。宣伝してもらうことで、与党はより支持を広げようと考えているでしょう」
カンボジアは、フンセン首相と、Facebookで成り立っているといっても過言ではない。
カンボジアの電気通信規制当局は、2018年、インターネットにアクセスしているユーザー数が1100万人に増加し、同国には680万のFacebookアカウントを持っていると発表した。
それは、都市部だけに限ったことではない。
高床式のような家に住む、貧しいと言われている農村地方においても、iPhoneを持ち、FaceBookを一日中眺めている人もいるという。
「実際に彼らは選挙活動を宣伝しているというより、自分自身の顔や姿を宣伝しているだけですけどね」
それでも与党の選挙キャンペーンを広げるのには十分だった。
カンボジアの街を歩くと、どこにいっても、ポスターが貼ってある。アンコールワットに向かう森林の木々、レストラン。日本のように、公平を期すため、決められた掲示板にしかポスターは張ってはいけないというルールはないのだろうか。
日本は、29日のカンボジア総選挙に向けて、約8億円の無償資金協力を実施した。日本製の投票箱を約1万1000個提供し、設置や回収に必要な車両を40台手配した。
どこの日本のメディアも、「後ろには中国がいる。中国に対抗するため、日本はお金を出している。カンボジアは、日本と中国の冷戦だ」という論調だったが、カンボジアの友人はこう言う。
「日本がいくら頑張っても、中国頼りになることは決まっているといってもいいでしょう。プレゼンスを高めたいというのは、期待はずれに終わると思います」
中国大手メディア・CNBCは、「日本と中国による東南アジア諸国への影響力争いの代弁者になっている」とし、世界第二の経済大国・中国が、カンボジアの選挙管理委員会に対し、投票所やノートパソコン、その他機器のために2000万ドル(約22億円)を提供したのに対し、日本も1万個の投票箱など750万ドル(約8億3000万円)相当の援助を提供したと伝えた。
日本は、中国との争いをいつまで続けていくのだろうか。果たして、その争いは「正しい」のだろうか。私はそうは思わない。
投票率
最大野党も存在もなく、勝利は決定している与党・人民党の唯一の懸念があった。それは、投票率だ。
国際社会から、強烈な批判を浴びていたフンセン首相にとって、「選挙は、そして私たちの行いは『自由で公正な選挙』であることを証明する」ことが必須だった。
見せかけの民主主義を構築するのに大事な投票率。政府の言い分はこうだ。
「カンボジアが民主主義を守っていることを国際社会に示すために、すべての人々に投票を呼びかけるよう呼びかけた」
「カンボジアが、人々がリーダーを選ぶ完全な自由を持っている良い民主主義を支持していることを、公的および国際社会に示す必要があります」
選挙には20党が登録されたが、もちろん対抗馬はなく、その20党は、
「フンセン首相が見せかけのためにつくったのでは?」という疑念は晴れない。
「出来レースである選挙を、できる限り隠そうとしている」
もっともらしい政府の言い分の裏では、批判が噴出していた。
与党・人民党は締め付けを強化した。
「与党に投票しない場合、公共サービスを控えるように脅迫」
「出生の証明書や、戸籍等の法的文書に署名しない」
こうした情報が出回っていた。
フンセン首相は、国民に対して、こう呼びかけている。
「投票をボイコットした人には、国民として認めない」
「ボイコットを呼びかけたものは、投獄、罰金の可能性がある」
ある現場ではこんなことがあった。
東京オリンピックを目指すカンボジアの選手たちの練習場所が、選挙によってなくなってしまうというのだ。
「必死に頑張っている選手がかわいそう」
カンボジア代表のコーチはこう漏らす。
「新しい練習場をつくってやるから、投票しろという意味だと思います。今、練習場をつくっても意味がないのに。東京五輪に向けて頑張っているのに、練習場を工事している間、彼らはどこで練習したらいいの?」
カンボジアに、プロの競技者が練習できる場所は限られている。その貴重な場所が、選挙によって奪われてしまう。
「練習ができなくなることがわかっているのに、どうして事務局長は引き受けたの?」
私は素朴な疑問をぶつけると、いつも通りの答えが返ってきた。
「競泳会長は、フンセン首相側近の大臣だからです」
これまで積み上げてきたものが、一瞬にして崩れていった感覚だったという。
「一部の人間の意思決定によって、選手たちの選手生命が終わってしまう。悔しい…」
労働省は、投票のために、3日間、有給休暇を認めた。これもまた、投票に行ってもらうため、故郷に戻る時間をつくったのだ。
しかし、ある労働者はいう。
「これまで、選挙のときに、お金をもらって仕事を休めることなんてありませんでした」
「会社が投票に行くときに労働者の賃金を削減していないのは初めてです」
のちに詳しく記すが、同国で稼働する縫製工場の労働者は、約100万人近くを雇用しており、国の根幹を支えているのだ。これほど、投票率に関わる業界はない。GDPも、縫製工場で作られた衣類の輸出入が高い割合を占めている。
政権と近いとされる、全国労働組合連合会長は、
「縫製労働者の休暇は、国を発展させる指導者を選ぶためであり、給与の引き上げなど労働者の利益をもたらすことができる」と話す。
教育省も同様、学生たちに対し、投票するよう指示したという。
「きっと先生たちにわいろを払ったり、なにかしら上層部でやりとりしているでしょうね」
汚職国家カンボジア、恐るべし。
クリーンフィンガーキャンペーン
反与党は指をくわえてみているだけではない。
投票率向上に躍起になっている政権与党に対し、元最大野党党首のサムレンシー氏は、投票への「ボイコット」を意味する「クリーンフィンガーキャンペーン」を行なった。
カンボジアでは二重投票防止のため、人さし指に簡単には消えないインクをつける。投票の有無が、一目でわかるようになっている。投票率低下を警戒する政権側は、職場を通じた監視を強める。
「指のインクが無ければ仕事を失いかねない」と心配する人も多い。
そのため、残された手段は「無効票」だ。
投票にはいくものの、どの党にも入れず、投票を終える。もちろん抗議の意を示すためだ。
中には、大きくバツをつけられているものもあったという。
その他にも、
「投票していないことがばれないように、偽物のインクが秘密で売られている」との噂もあった。
なぜ、そこまでする必要があるのか。
投票は義務ではないにも関わらず、内務大臣は、「ボイコットに参加した有権者は最高5000ドルの罰金に遭う可能性がある」と発言している。
その捜索はカンボジア国内にとどまらないという。
「投票しなかったり、野党を支持していた人がタイに逃げた人を追跡していると聞いたことがあります。タイ政府に呼びかけているとも。実際にタイ警察に尋問されたとも言います」スパイはどこにでもいるのだ。
結果、投票率は下がることはなく、前回を上回る80パーセント。
しかし、無効票は前回の6倍、60万票が、無効票だった。
「選挙後も平和が続くことを望んでいる。我々は何の問題も見たくない」
これが、ポルポト時代をよく知る人々に多い意見だ。
無理に反抗さえすれば、殺されるかもしれない。
「もし、政権が変われば、また戦争が起きてしまうかもしれない。
命令に従うしかありません」
ある国民はこう答えた。
*
与党は、125議席すべてを獲得。
フン・セン首相はフェイスブックで「同胞が民主主義の道を選び、権利を行使した」と謝意を表した。
その後、
「投票に行った人々と、行かなかった人々が互いを差別してはいけない」
「18%の有権者が投票には行かなかった。82%の国民は選挙に行かなかった18%の人々を非難してはいけない」
と呼びかけたと現地紙は報じた。
また、首相はサムレンシー氏と解党したCNRPに対し、
「もし、党があれば、戦争が起きていた。カンボジアでの戦争を避けるために解体されたことは価値があった」と話した。
まるで子供騙しのようだった。怒りではらわたが煮えくりかえっていたが、次第に呆れに変わっていった。そして私自身、無関心にならざるを得なくなってしまいそうだった。
私自身、昔から、2018年の選挙を楽しみにしていた一人である。
「どちらが勝とうとも、歴史的な選挙になることは間違いない」
皮肉的な言い方をすれば、確かに歴史的な選挙になったのだが、盛り上がりを見せない選挙と、カンボジア人の表情を見つめると、
「いったいこの国はどうなってしまうのだ」
と思わずにはいられない。
「民主主義が死んだ日」とされた7月29日、投票を終えた人々には、涙を流す人もいた。
125議席全てを与党が占める、真の独裁国家の誕生だった。
「自由で公正な選挙が行われ、民主主義の結果、与党人民党は勝利した」
対抗勢力を排除した選挙の勝利。果たしてそれは「安定」なのか。安定という名の不安定ではないのか。
国は猜疑心であふれかえっていた。
フンセン首相は、もともと、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の兵士だった。その後、ポル・ポト派を離脱し、その後、ベトナムに逃れ、反クメール・ルージュ勢力に加わった。
1979年、ベトナムのカンボジア侵攻でクメール・ルージュが支配していたプノンペンが陥落、同日、28歳で外相となった。そして、1985年、外相兼任で、首相に就任した。33歳であった。
若くして首相となったフンセン首相は、一つ一つ、帝国を築き上げていった。
NGO・Global Witnessは、カンボジアのフンセン首相と家族、同僚たちのビジネス上の利益を明らかにした報告書を発表した。
報告書によると、フンセン首相の家族は、観光、農業、鉱業、電気、メディア、国際的なトップブランドとの提携など、経済のすべての分野で100社以上の企業とリンクしているという。
そして、家族の複合資産は、500億ドルから10億ドルの間のどこかにあると推定されている。
選挙においても、一部報道によると、「選挙監視人も首相と緊密な関係だ。息子によって運営されている」と言われている。
こうした強力な癒着が、裁判所も、メディアも、全てが一体となり、野党を解党することができた大きな理由だ。
そんな政府・与党においては、言論の自由もいとも簡単に封じこめることが可能だ。
選挙の前日、ロイター通信はこう報じた。
「いくつかのインディペンデントメディアのウェブサイトがブロックされた」
報道への弾圧とみられ、ホームページは開けなくなってしまった。
こうした行いは、英字紙の閉鎖を見てしまっている私たちにとっては、はるかに優しいという不思議な感覚に陥ってしまっているのである。これが、音を立てず、国家が崩れていくということなのだとはっきりと感じたのである。