田中将介

-tanaka masayuki-

「さようなら民主主義」独裁のフン・セン政権弾圧の全貌 第三章 クメールルージュのかけら

カンボジア

「さようなら民主主義」独裁のフン・セン政権 弾圧の全貌〜PKO派遣から25年 今カンボジアでいったい何が起きているのか〜

 

「さようなら民主主義」独裁のフン・セン政権弾圧の全貌 第一章:民主主義の死

 

「さようなら民主主義」独裁のフン・セン政権弾圧の全貌 第二章:ジャーナリスムの死

 

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第三章 クメールルージュのかけら

 

 

ユニクロ潜入取材を受けて

カンボジアのGDPの大半を占めるのは何度でも言うが、縫製業界だ。政治と労働者、特に縫製労働者は切っても切り離せない関係にある。そんな縫製業界は、外国との取引があって、成り立っている。この縫製業界こそ、カンボジアという国の実態を表すのに適しているのである。縫製工場や、工場の経営者、ファッション業界、労働組合。様々な立場の人に取材したことを記録した。

 

カンボジアの首都、プノンペンは、相変わらずじりじりと灼熱の太陽で迎えてくれる。例え町並みが外国資本のビルで埋め尽くされようとも、このじめじめとした空気の匂いは飽きることなく、存在し続ける。ユニセフやポリスのシャツを着る一般人たちがバイクを走らせている光景は何年たった変わらない。   

二〇一七年の五月、私はプノンペン国際空港に降り立った。

きっかけは、ジャーナリストの横田増生氏が週刊文春で連載していた「ユニクロ潜入一年」だった。

この連載は、実際に横田氏がユニクロの従業員として働き、企業の労働実態について取材したものであった。

その連載の中に書かれていた「カンボジア下請け工場の闇」を読んだ。これは、ユニクロの製品を作っているカンボジアの工場で、労働者に対する人権侵害があったという主旨の記事であった。

私はいてもたってもいられなくなった。胸がざわつくのがはっきりとわかった。正直に言えば、悔しかったのである。

「果たして、本当にカンボジア人はかわいそうなのだろうか?」

 

 カンボジアは、日本を始めとした世界中の国が安い労働賃金を求め、洋服やバックなどの衣料品を作るよう取引を行うファッションの生産現場である。

この国を語るのに、衣類産業は外すことはできない。

輸出の大半を衣類が占めているし、多くの国民が縫製労働者として従事しているからだ。

 

「SDGs」をご存知だろうか。

国を超えて世界で認識を広めようとしているSDGsは、(Sustainable Development Goals)持続可能な開発目標と名付けられ、二〇一六年から二〇三〇年までの国際目標である。

日本でも、ピコ太郎と小池百合子東京都知事が一緒に踊っている広告映像が制作された。

国際社会が直面している問題解決に向け、貧困、飢餓、保健、教育など一七の開発目標・一六九項目のターゲットが掲げられている。

映画「the true cost ファストファッションの代償」が放映され、私たちの暮らしや生き方はどうあるべきなのかといった議論も日本では盛んになっている。

他にも、CSR(企業の社会的責任)、CSVが取り上げられ、社会に貢献していない企業は「かっこわるい」「ださい」などのレッテルが貼られるようになった。

流行は、企業に大量生産を喚起し、そしてあっというまに過ぎり、次々とモノはゴミ箱に捨てられていく。

安いものは使い捨てることに対して抵抗もなく、購入するのにもハードルが低い。この動きに対して、Noという人が増えてきた。

そんな中で、ユニクロの大きな決断に、一部では、賞賛の声があがった。

ユニクロが提携先である現地工場の情報を公開したのである。

 

「サプライチェーン」という言葉を聞いたことはあるだろうか。

 簡単にいえば、製品がつくられるまでの全体的な流れだ。

 私たちのもっているもの、例えば、着ている洋服などは、どこでつくられ、どこからきて、どのような経路を辿ってその店舗にたどり着いているのか。

サプライチェーンがオープンになれば、流通の過程で、労働を搾取され、賃金が適切に払われていないということがなくなる。企業や工場側も、オープンにしているということで、外に見せても大丈夫なように常日頃から緊張感をもつようになる。騒動が起きれば、会社の信頼が損なわれてしまうからだ。

内部にいる労働者たちの声も社会に届きやすくなる。

 

 

「工場で物を作るための肉体労働は大変」

 昔から日本でも「女工哀史」と言い伝えられてきたように、私自身工場の労働者についての認識はその程度でしかなかったため、深く調べてみることにした。

 

「労働者が自殺」

「61人が工場内で集団失神」

「24時間勤務が横行」

縫製工場における労働環境の劣悪さを物語る見出しがインターネット上に踊っている。

「労働者ストライキ300人規模」のようなデモ活動は頻繁に起きていた。

 

現地紙によると、二〇一六年の失神した労働者の数は急増し一一六〇人以上に達した。二〇一五年には、六四六人。

報告書では集団失神を引き起こす要員をいくつか挙げており、一番の原因は「集団心理」によるものとしている。

次に多い原因としては残業を挙げている。他にも、化学物質といった理由もある。

二〇一四年の国際労働機関・ILOの報告書では、七〇万人の縫製労働者のうち四一%以上が貧血だと推測している。

労働組合は、工場で倒れる人を減らすのは労働省や工場運営者の責任であると、強く批判する。

両者には労働者への義務があり、労働省は安全な職場環境を整えない経営者を処分する責任があると訴える。

 

ある新聞では、やや強めの論調で、

「時間外労働を拒否すれば、解雇するぞと脅される。適切な給料を払われないケースもある。他にも、トイレに行かせない、休憩はなしにするなどの脅しがかかることもある」

と報告されている。

 

果たして、カンボジアの労働者は、どれほど「かわいそう」なのか。日本人や、先進国がこぞって報道する人物像は果たして、正解なのだろうか。ユニクロがこぞって批判されるのは、果たして、善なのだろうか。

無数に疑問が湧いてきた私は、いてもたってもいられなくなった。

 

実際に工場に足を運んだ人がどれくらいいるだろう。自分が体験していないのに、「環境問題」について話しても、誰が信頼してくれるだろうか。

テレビで「シリアでは戦争が起きています。わたしたちも真剣にこの問題について考えなければいけません」と、シリアに関心のないキャスターが言うようなものである。

何より、私自身がそうすることが嫌で仕方なかったということに過ぎない。

 

「この問題を自分の目で見たい」

「縫製工場で働く人間たちがどんな生活を送っているのか知りたい」

大きな好奇心に襲われた。

「カンボジアの工場に入って取材しようではないか」

こうして、私の一年ぶりのカンボジア渡航が決まったのである。

 

 

ファストファッションは悪なのか

ファストファッションが世界から問題視され始めたのは、バングラデシュで起きた倒壊事故が大きいと言われている。

2013年4月24日バングラデシュの首都・ダッカ近郊で縫製工場となっていたラナプラザというビルが倒壊、およそ1100名もの人々が亡くなった。

低賃金、過酷な労働環境がもたらした負の歴史であり、当時の状況が報告された記事を読むと、つい顔を歪めてしまう。

 

悔しかった。私たちが何の気なしに着ている服が、彼らに血を流させているという事実。紛れもなく、それを知っていてもファストファッションを好む自分に向けられているものでもあった。

「ブラック企業は嫌いだけれど、ブラック企業が作った商品は好き」

人間の性である。

 

CSRといっても表面的なことが多い。

「私たちは社会にこれだけ配慮していますよ」

「縫製工場のコンプライアンスをきちんとチェックしていますよ」

とホームページに掲載するだけでよい。会社がお化粧をしている状態だ。

いくら環境に配慮したSDGsやCSRなど、流行りにもならない一過性の言葉を声高に叫んでも、結局は小さなコミュニティの中で、終わってしまう。

 

 

初めてプノンペンを訪れた4年前、私は広い道路を数千人に及ぶ縫製工場の労働者たちが埋め尽くしている様子を初めて目にした。

自らの「生きる」権利を求めた命がけの大行進だった。

女性たちの力強い声は熱気のあるプノンペンの街を飲み込んでいた。

二〇一三年一一月当時の最低賃金は八〇ドルであり、彼女たちはより高い賃金を求め、デモ活動を行っていた。

ちょうどその時期は、カンボジアの総選挙が近づいており、与党と野党の攻防が続いていた。この抗議活動の終着点が、四人以上の命を奪ったとされる、世界のメディアが注目した大事件であったのだ。日本で知っている人はほとんどいないという面においては、世界的ニュースではなかったのかもしれないとも思うのだが、翌年の二〇一四年一月三日、この国においては時代の転換点になった。

 

「賃金をあげろ」と叫ぶ女性たち。そこには、人間の力強さと、まさに戦場ではないかと思うほど、空気がぴりぴりと緊迫していた。

しかし、私は傍観者であった。

「日本でも行われているデモの拡大版」

数日後にまさか数名の命の灯火が消えてしまうことになるとは思いもしなかった。

 

消えた4人の命の灯火

 

二〇一四年一月三日の出来事だった。

縫製工場で働く市民と、政府から派遣された軍隊の争いを終わらせたのは、複数の銃弾であった。

「少なくとも」4人が亡くなった。22歳から25歳の4人の若い男性であった。

米メディアのニューヨーク・タイムズ紙はこう報じた。

「労働者は、岩、棒、自家製の火薬で対抗。警察は銃で群衆に発砲」

 人々は混乱に陥った。

駆け回る人、逃げるために階段を駆け上がり、身を隠す人、あたりは騒然としていたという。

政権与党に操られた警察と軍隊は、容赦なく市民たちを地獄へと追いやった。

 

市民を熱狂させる野党のリーダーたちは、労働者たちに、声をあげさせた。

「君たちならできる」

カンボジアの労働者たちは、まぎれもなく、政治利用されていた。

 

 その後、遺族関係者による刑事告訴が行われたが、政府と密接な関係にある裁判所や警察官である。

事件を正当性を認めることはなかった。 

この事件について、国内メディアはじめ、イギリスBBC、アメリカニューヨーク・タイムズ、timeやロイター通信などの海外メディア、国際人権団体アムネスティなども報じ、批判した。

その一方、カンボジア内務省は、

「いかなる死傷者もなしに平和的に行われた」

と声明を発表。

混乱が収まるまで、抗議行動や集会は禁止され、他にも国益に悪影響を及ぼすものを違法行為とするとした。

カンボジアのフン・セン首相は、このデモに対し、

「野党が国を不安定化させるものである」

と発言し、警察や軍隊の行動を称賛した。

政治活動家も次々と逮捕される一方、発砲した軍や警察の人間は逮捕されない。この事件は、国の秩序を表していた。

 

 

死亡者に数えられなかった少年

 

私があえて、死亡者を「少なくとも」4人と書いたのは理由がある。

「スバイリエン州で生まれたケム。ソファットは、16歳の労働者だった。

プノンペンで最低160ドルの賃金を要求する2014年の抗議に参加した。

政府によると、警察が『暴動勢力』(市民)に発砲した時、4人の抗議者が殺され、40人以上が負傷しました。しかし、彼の体は決して見つからなかった。そしてその少年の父親はこう語った。

『私の息子を本当に撃って殺した人を教えてほしい』

父親は、息子がいる可能性のある場所を求め、全国を探し回った。

『ある情報を元に、遺体が運ばれ、焼かれたとされる山に行きましたが、息子の骨はわかりませんでした。私は子供がいつか戻ってくると思っていました。しかし、息子の友人から、息子が胸に撃たれて車に乗っているのを見たという話を聞いて、私は息子が死んだことを認識し始めました』」。

 

2017年1月、いまだ骨が見つからない少年の父親による悲しみの声が現地紙に届けられた。

 

16歳だった息子の存在は、なかったことになってしまった。なぜ彼は、「消され」なくてはならなかったのか。

 

真実は、一部の、そしてまた一部のみぞ知る。

「ポスト北朝鮮」こう呼ばれる所以にもなった。

市民は悲しみに暮れた。しかし、

「抗議行動をすれば、今度は自分が…」

こうした恐怖に支配された。

過去の歴史と同じ道を歩む、いや、歴史を塗り替えるような、そんな危機感を和は抱いた。

しかし、SNSの発達や、若い世代の台頭により、2013年、夏、これまで、与党一党独裁圧勝で終わっていたこの国で、最大野党に多くの票が投じられた。

野党の得票率は、44パーセントにも及んだ。

 

「歴史的瞬間まで、あと一歩だったのに…」

こう悔しがる野党支持者。

20〜30代の若者たちが、「変化」を求めた結果だった。 

 

市民の権利を求める声が上がってきたのは、声をあげれば自らの命を差し出すことを意味する、これまでの歴史では考えられなかった。

 

「5年後の総選挙で必ず政権交代が可能になる」

カンボジア国民の大きな希望と期待とは裏腹に、政権与党は、大きなあせりを生んだ。

この結果が、国の事態がより一層混迷を極めるものとした。

 

 

事件現場で出会った「日本」

 

これだけの事件が起きて、その現場に行かないわけにはいかない。

私は、事件が起きた当時の場所を歩き、労働者たちの様子を伺いうとともに、当時その場所にいた人たちへの詳細なインタビューを重ねることにした。

 

首都・プノンペン中心地からバイクを走らせ、およそ1時間。

カンボジア人の台所、カナディア市場に隣接し、産業用トラックが行き来する4号線と呼ばれるその道にある。

カナディア団地と呼ばれる産業地帯は、アディダス、プーマ、H&Mヘンネス&モーリッツを含む西洋ブランドの衣服を作る数十の工場の本拠地であった。

「まさかこの場所で」と、当時の事件に想いを馳せようにも、その想像が難しいほどまでの静けさと、変わらぬ日常をおくる労働者たちの顔が垣間見えた。

 

朝の7時半頃到着すると、どこの工場でももうすでに仕事が始まっていた。バイクは整然と並び、これまでどこの工場にも共通した、頑丈な壁と、ガードマンに守られたそのセキュリティが、ただただ連続しており、あるのは、市場で働く人たちが、その道を行き来する姿のみである。

林立した工場の中には、日本の会社も一件だけ見受けることができたが、あとは全て中国の工場であった。

併設された客のいないレストランも全て中華のレストランであった。

中国のカンボジア進出を肌に感じる。

歩くと往復して45分ほどの奥行きに広がる産業地帯は、労働者たち、そしてその家族が住むことのできる小さな家も含んでおり、多くの人々の生活がそこにはあった。

取り壊されかけた1つの工場を見つけたので、見学することにした。

服を作る過程がはっきりとわかる痕跡があちらこちらに残されている。服に着色を施す染めの部屋、化学薬品の有毒性が書かれた注意書きや種類などが、壁にそのまま貼られている。

避難場所や、救急車、警察など、インフラや生活に関わる基本的な施設への連絡先なども、きちんと壁に貼られている。

床には、誰もが知る某ブランドのタグが大量に落ちている。

「渋谷区」と日本支店の住所が記されている。

カンボジアで渋谷区という慣れ親しんだ文字を見ることに世界がつながっている不思議な気分がした。

開かれた工場の反対側の出口のドアから出てみると、わずかなスキマをへて、活発に衣類を作り続ける工場が音を奏でている。ヘドロかなにかで覆われている足元を若干の嘔吐感をもよおしながら、なんとか進んでいくと、

小さな一部屋に、マスクをしながら服の染の工程をする2人が見えた。

なんとなく女工哀史を想像させる。

 

壁に貼られた書類を写真に収め、散乱しているブランドのタグやカタログ、商品を確認した。

きちんと労働者に配慮している内容であった。

 

一度、近くのカフェで時間を潰したあと、再度その産業一帯に戻り、昼の休憩をとる労働者を待った。11時半、もしくは12時に午前が終わり、一時間休憩というのが基本であった。

労働者は、だいたいジーンズやチノパンツに、Tシャツ、そして日焼け防止にカーディガンと、日傘をさし、併設された市場で食事をしたり、市場を買ったものを木陰で輪になって食べたり、自らもってきたお弁当を食べている。

横になりながらスマートフォンを眺める人もいれば、労働者同士で会話を楽しむ人たちもいた。

その途中に驚かされたのは、産業地帯の道端で、帽子を置き、お金を乞うている人がちらほら見受けられたのだが、労働者たちが、10人に3人ほどの確率で、彼らにお金を差し出していた。

彼らだって、決して満足するほどの給料をもらっているわけではないのに、その人間的な心の優しさとその文化に、私は胸が熱くなった。

 

日本の工場の従業員のみ、お揃いのポロシャツを着ていたことである。

オーナーや政府は、労働者の生産性の低さを理由に、労働者の賃金を上げることに、反対、批判し続けるのではなく、いかに労働者たちの生産をあげるかに注力するべきだという声が上がっているが、全くもってその通りであると共感したのであるが、その一環として、日本の工場の多くは、チームワークや会社への所属意識を向上させるという文化を導入している。

それは一部、日本の考え方を押し付けている、その文化は正しくないと考える一部の層もいるわけだが、それによって生産性が上がっているのであれば、私は良いのではないだろうかと工場地帯を歩きながらぐるぐると脳内が動いていたわけである。

 

 

夕方17時頃になると、ちらほら、労働者たちが仕事を終え、工場から出てきた。18時頃になると、工場で働く人数に対する数で考えると、そう多くはないが、ある程度まとまった人数の労働者たちの姿が見えた。

その多くは、夜ご飯の食材の調達だろうか、市場で買い物をしていた。

ごくごく普通の、人間らしい、日常生活の姿に、なんとなくほっとした。

買い物を終え、それぞれの家に戻っていく。中には、隣接された寮なのか定かではないが、その生活空間に戻っていった。ちなみにその家をのぞいたが、一部屋しかなく、皆、外にたまった壺の水で全身を洗い流していた。その一方で、外から見える工場内を覗くと、まだ働いている人の様子も見える。

これまで、100人近くの労働者たちに聞いた「だいたい残業は2時間くらい」と答えたことを思い浮かべ、時刻は18時、だいたいあと1時間ほどかなと予想した。

多くの労働者たちが帰路に着き始めたため、私も自宅に戻ることにした。

「業務時間が改善されたからなのか」

「元々、そんなに残業はなかったのか」

「いや、そんなはずはない。あれだけ日本でカンボジアの労働事情に関する報告書を読み込んできたから間違いはないはず」

 

そんなことを頭の中で考えながら、ある1人の男性が私に語ってくれた言葉が頭から離れなかった。

「私はカナディア団地での事件の様子を見ていました。当たり前ですが、縫製工場で働く女性たちが異様なまでに抗議していたように見えていたかもしれません。もちろん、抗議していた人もいたかもしれない。けれど、私が直接見て、聞いたのは、労働者たちはデモ活動をするよりも、そのまま働き続けたかったんです。なぜなら、彼女たちは仕事の最中で、仕事をしなければ、給料が減ってしまうからです。

ではどうなっていたかというと、おそらく労働組合や、野党の政治家にそそのかされた労働者ではない、外部の人間が、工場の門を皆で押し倒して、労働者に向かって「仕事を中止しろ」と叫んだ。安全のために労働者たちも外に出ざるを得ない状況になっていたのです。警察や軍隊は、工場の人間たちも含めて守ってくれた側だと思います。労働賃金が140ドルと決まって1番不満だったのは工場の当事者ではなく、周りの人だったと思います」

 

 

 

初めてのジャーナリズム

当初、カンボジアに取材で足を踏み入れた私は、こんな気持ちだった。

「さて、私はいったい何から始めたらいいのか」

根拠のない自信から私はこの土地にやってきたものの、いざその場にたつと、突然頭が真っ白になってしまった。

現場に行きたくても、どうしたらよいのかわからない。日本で読んできたレポートにあった人権侵害の状況にいきなり出くわすはずはない。さらに、自分なりの真実を見つけるためには、問題の着地点を見つけ、その解にあった材料を探しても意味がないし、第一、私はそんなことに興味がない。現地に住み込み、一般の人ではいけない場所に行き、実際に現地の人を雇い、ビジネスを回している人たちに聞くことこそ、私は現在のカンボジアの姿が浮かび上がってくるのではないか。そう思った。

 

バイクショップで活動家と出会う

 

いきなり困り果てていた私を、この先に何度も助けてくれることになる、

現地の社会問題に精通する活動家のスペシャリストに出会ったのは、まさかの翌日にいったレンタルバイクショップだった。

手がかりもなくなり、予定もなくなった私はようやく、日本人が経営しているというレンタルバイク屋に向かった。そこにいたのはスタッフのハック。この男が私のカンボジア取材に花を咲かせた。

バイクの使い方やルールを教えてくれながら、何気ない会話をしていたとき、私がふと「カンボジアのいろんな社会問題を取材しているんだけど」というと、彼の目の色がはっきりと変わった。

なぜ彼がレンタルバイク屋で働いているか聞くのはやめておいたが、とにかく彼の口から次々と、「この国の問題は・・・」という熱い演説が始まった。「この問題が俺は許せなくて。友人たちと一緒に活動していて。」

私はとにかく耳を傾けた。  

そして、こちらから何も言わずとも、彼は「おれと一緒にこい」と、様々な場所、そして仲間の活動家たちと暮らす家にも招待してくれた。

彼らの存在は心強かった。

 

ある日突然、そのハック含め活動家グループからメッセージが届いた。

「まさ、今日何している?」

これから、式典があるらしい。

「今から行く!」

二つ返事で、現場に向かった。

何の実績もない、明らかに若い僕に、仲間として親切に受け入れてくれた活動家たちがいる。彼らの志は熱い。

この国の問題について、何が問題なのか、僕に伝えたくて伝えてくてどんどんヒートアップしてくる。何から何まで親切にしてくれる。よりいっそう、僕はこの国のいまを伝えたい。そう思うようになっていた。

式典には大勢の市民たちが集まり、手を合わせ、ある人物の死に思いを馳せていた。

彼の名前は、チェアビチェア。彼は労働組合のリーダーとして、多くの労働者に寄り添い、活動を続けていた。当時の最低賃金は、45ドルだった。

 しかし、彼は、政府軍の糾弾に倒れた。

 なぜ、彼は死んだのか。いや、なぜ彼は殺されたのか。その真相は、権力によってもみ消されたまま、もう15年が過ぎようとしている。

「貧困だけど、笑顔が素敵な国、カンボジア」

それだけが本来の姿ではない。

 誰もが政府の批判を口にすることさえ許されない、当時のポルポト政権の恐怖政治と似た匂いが、時が経つにつれ、ぷんぷんしてくる。

「抵抗とは、地面に堕ちることだ」

そんなメッセージを、ビチェアの死によって受け取ったと話す市民もいる。

この事件は、縫製業やファッション・アパレル業を語る上で、そしてカンボジアにおける歴史を語る上で外すことはできない。

1人の死が、大きな産業の何を意味するというのだろうか。正

 

当時の様子を少しばかり振り返ってみたい。

 

二〇〇四年一月二二日。労働組合のリーダーだったチェアビチェアは死んだ。

彼は縫製工場労働者の労働環境改善と権利を守るため、多くの労働者の信頼をうけながら、活動を続けていた。

現地紙、カンボジア・デイリー紙の報道によると、犯人は2人組で、1人がバイクの運転手、もう1人が銃撃者である。銃撃者はコンビニへと向かった。置いてあった新聞を見たあと、ズボンからピストルを取り、3頭の弾丸を発射。頭部、胸部、左腕を撃ち抜き、ビチェアは凶弾に倒れた。

2人はすぐに逮捕され、懲役20年の判決を受けた。しかし、有罪判決を受けた2人は、不当な逮捕であったことを強調し、9年間の法廷闘争の後、最高裁判所によって無罪となった。

友人や家族、その周辺の人々は、彼がなぜ殺害されたのかを知っていると答えている。

内務省は、真犯人を見つけるための調査はまだ続いていると述べているが、政府にとって都合の人物を消したと考えられるのに、いかにして政府が管轄している省庁が見つけ出すというのだろうか。政府の支持率が下がり、世論の反発が収まりきらなくなったタイミングで、真犯人を見つけたと、政府の手柄にし、世論をおさめるつもりだろうと話す人もいる。 

ビチェアを殺害した人物は誰だったのか。

この一連の騒動は、カンボジアのみならず、各国のメディアも注目した。

 

「多くの人は、殺人は政治的に動機づけられており、権力者と強く結びついていると信じている。しかし、この事件で正義を見出す可能性は、非常に厳しいものとなるだろう」。

カタールを拠点とする中東の有名メディア、アルジャジーラのレポートだ。

無罪となった2人は、「閉鎖されたドアの向こうで警察は2人を殴打し、事件の犯人だと言うように導いた」と言われている。

 (二〇一三年一〇月三日)

 

市民たちは今でも、政府に対し、事件の真相と真犯人の捜索を求めている。

不当に逮捕された2人に対する生活の補償はなく、失われた時間は帰ってこない。彼らの叫び声は、これまで通りなかったことになってしまった。

 

ビチェアの死が意味するものとは何なのか。

私には、33年に及ぶフン・セン首相の独裁政治がいかに危険で横暴なものであるか、一言では言い表すことはできないほどの権力の乱用にしか見えなかった。

軍、警察、裁判所がいったいとなったこの国の首相に、怖いものは何もない。

氷山の一角に過ぎないこの事件。

人々の溢れる涙が、この大地には流れている。そして、その涙は、穴のあいたバケツのように、これからも流れていくのだろうか。

 

家に帰り、プノンペンの町並みを見ながらふつふつと湧き上がる感情と対話する。

「独裁者とはー」

 

やったことをやっていないとし、探ろうとするものを殺害する。

 こうして、これまで、どの国も政権を築いてきた。

だから仕方ないこと?

これが世の常?

私だって、これまで、彼らの死が、政府によるものだと決定的な事実を掴んだわけではない。

この国の議員や力関係も深く理解できていなければ、理解するための現地語も、日常会話に少し毛の生えたものだ。与党と野党、市民、人権団体と警察、軍隊、複雑に混じり合った彼らの衝突を指をくわえて見ているしかなかった。

「現地のメディアがやればいいじゃないか」

カンボジアで販売されている紙の新聞を買うことが日課だったことがそれを表している。

 

なぜ、私がカンボジアを取材する必要があるのか。カンボジアにもあふれるほどの問題が複雑な理由で絡み合っており、その全てを理解するのは到底難しい。カンボジア国内だけの話ではなく、メコン川や、ベトナム、タイとの衝突など、外交的な1面もある。なのに、「どうして言語もわからない、どう考えても浅い情報しか手に入れることのできない人間が、海外のこの国の労働問題を取材するんだろう。こんなことやっても、何の取材にもならないじゃないか。表面上の問題を追いかけてお前は誰を守りたいんだ」と葛藤する。

いつもその先にある答えは、シンプルな場所に行き着く。

「誰が1番弱い立場なのか。取材するべき人間は、当事者たちだ」

「一刻を争う問題な気がする。闘い続ける彼らを少しでもサポートしたい」

彼らにとっては、その殺害が政府によるものだろうと、そうでないことであろうと、そこまで重要なことではない。

彼らが政府への「不信」を積み重ねていることは明白だった。

 

恐怖によって、声が出せなくなり、目の前の日々を過ごす生活からの脱却。

ハックのような活動家たちに車の中で聞いたことがある。

「政府から殺される危険があるのに怖くないの?」

「当たり前じゃないか。怖くないよ。俺たちがやるしかない」

何を言っているの?というような表情をしながら、そう答えてくれた。彼らの勇ましさ、国を変えたいという人間としての強さを感じながら、私だって負けられないという思いを強くする。

 

 

プレスパスで命を守る

 

 こうした取材では、市民と警察、軍隊の暴力による衝突が頻繁に起き、血を流す人が高い可能性で起こる。自分もこんぼうのような鈍器、そして銃で撃たれる可能性もあるのか・・・と何度不安になったことか。

そのときにハックがさらっとこう言った。

「まさ、プレスパスはもっていないのかい?もっていないと殺される危険性があるから申請しておいで」

「まさか」

この場所もある意味で戦場なんだなと身が引き締まった。

この国だけでなく、ジャーナリストも市民も格好の餌食だ。

「政府が報じられたくない場所にこそ、市民の小さな声が埋まっている」と聞いたことがある。その言葉を思い出し、

「どこであろうと、伝えるという行為には命の危険がまとうのだと。それでもやる意義を感じたならばお前はやり続けろ」と暗に言われている気がした。 

きっと、私もこわいのだ。もし、現地ではなく、日本がこのような状況で、言葉もきちんと通じながら、好きなように取材できる場合だったら本当に私は権力に踏み込めるのか?殺されるかもしれないという恐怖と闘いながら、自らの使命を全うできるのか?

そんな問いが常に自分につきまとう。

わずかながら生きてきたこれまでの人生でそれもまたわずかながら見てきた、聞いてきた、経験してきたものたちがあるから、私にだってどうしても許せないことはある。では、いざ、そのために、命をかけてでも報道しろといわれたら?

やっぱりこわい。それでもこの仕事を続けたい。いつか怖くないと思うその転換点は来るのだろうか。

 

翌日、私は、プレスパスを申請した。

写真や書類の一式を提出、サインして、おわり。

「3日後には出来ていると思うから、取りにきてね。できたらいちおう電話するね!」と声をかけられ、笑顔で「ありがとう!」と言い放ち、その場をあとにした。

 

その日、自宅でリラックスしていると覚えのない番号から電話がかかってきた。「あれ、だれだろう」。電話に出てみると女性の声が。

「ハロー」

「ハロー、ごめん、どちらさま」

「えー、今日の、情報省の・・・」

「おー!どうしたの?もうできたの?はやいねー!」

「いや・・・。そうじゃなくて・・・。ちょっと、電話したかったの」

デートの誘いだった。

省庁に提出した個人情報を、一人のスタッフが私用に電話をかけている。

この国に、プライバシーという言葉はないのだろうか。

 

 

クメール・ルージュのカケラ

 

ある日、現地在住日本人の会社の社員であるカンボジア人女性の実家に遊びにいくことになった。彼女は日本語が堪能な女の子だった。彼女の自宅は、プノンペンからおよそ車で1時間ほど、田んぼの広がる街にあった。

日本にあるような家を想像してはいけない。壁はなくぼ吹き抜けの状態であるものの、二階建てで作りがしっかりしているので、下に落ちることはない、と信じながら、二階に、寝ている間に蚊に襲われないよう蚊帳をはり、掛け布団にくるまって寝泊まりした。家に着くと、家族が出迎えてくれた。そしてカンボジア流おもてなしが始まった。

とにかく、いろんなご飯がでてくる。

「食べなさい、食べなさい」と、言語が通じなくても、にこにこしながら料理をすすめてくる。もちろん、食事のお伴は「アンコールビール」だ。

ねっとりと肌にまとわりついてくるこの暑さに、冷えたビールはたまらないのだ。ここもカンボジア流、ビールに氷を入れて飲む。実に違和感がない。だんだんと兄弟たちが帰ってくる。4人の兄弟と両親が実家に揃った。とにかく明るい家庭だった。

話がすすむと、お父さんが昔の話を始めた。お父さんのお父さんはポルポト派によって殺害されているという事実を。にこにこしていたお父さんのふとした瞬間の悲しげな顔が、頭から離れない。急にご飯とビールの味がわからなくなってきた。詳細な事実まで話すことはなかったが、その事実は、私の人生にずしんとのしかかってきた。

ポルポトの独裁により起きたクメール・ルージュとはいったいなんだったのか。

ポル・ポト大虐殺は、これまでも、そしてこれからも、語り継がれる謎に溢れた歴史的出来事である、これが意外にも1976年から1979年と最近の出来事であるのだ。私は現在24歳であるが、自分の祖父や祖母がポルポト政権時代に犠牲になった世代なのである。

正直な話、私だって、これまで大虐殺が起きたという事実に胸が痛めてきたものの、どうも自分のことのように悲しいわけではなかった。

その出来事が起きた土地を回ってきたのにも関わらず、どうもどこか遠い世界のような話に感じてしまうわけである。しかし、いきなりふと日常で出てきた、深い悲しみの上になりたった重たい言葉たちは、私の胸に衝撃を残した。「なぜ、彼らは殺されなければならなかったのだろうか」

夜のカンボジアの風は、優しく私の肌をぬけていく。田んぼ以外の何もないこの場所をただただ見渡しながら、考える。誰も彼の横暴をとめることはできなかったのだ。まさか、そんなことが起きているなど思わず、世界の国が、100万人とも300万人とも言われる人の命を無視し続けたのだ。その責任をどこかに転嫁する気分にもなれなかった。

通訳の仕事をする25歳の若い男性が心境を語ってくれたことがある。

「昔の話は、家族から当たり前のように聞いています。収容所など観光地化された場所に行くのもいいですが、生の声を、小さいときから聞いて育ってきているのです。

10代の子どもが大人たちを殺す。子どもにお酒を飲まして、判断ができない状態にさせてから殺害を命じていたとも聞きました。

一方で、良かった点もあったそうです。それは、皆平等ということです。ルールをきちんと守りました。だから、物を盗むとか、レイプをするとかは、ほとんどおこらなかったといいます。

ポルポトの時代、薬もないし、食事も、食事と呼べるものではなかったので、私の兄弟は7人いたのですが、4人亡くなってしまいました。私が生まれる前の話ですので、会ったこともありません。会ってみたいなあと、たまに思います」

一方若い女性は、

「現在の首相、フン・センさんは、過去の歴史をあまり口にしない。だから、ポルポトのことも知らないというより、興味のない人が多い」と話す。

その女性は、ポルポト後に起きた内戦の様子を語ってくれた。

 

クメール・ルージュ後の世界

 

一九九七年、カンボジアは内戦が起きた。その原因をつくったのが、現首相であるフン・セン氏である。

彼は選挙の結果をも自らの手で変え、連立政権を樹立、その後、連立の相手であった政権のトップが外遊中にクーデターを起こし、内戦となった。ニューヨーク・タイムズによると、国会議員であったサム・レンシー氏による抗議に対する手榴弾攻撃により、少なくとも16人死亡した。

その結果、フン・セン首相は、与党第一党になり、現在まで政権を運営している。

また、二〇一三年七月の選挙では、そのサム・レンシー氏を筆頭とした野党は、与党が不規則でいっぱいであると強く批判した。にも関わらず、フン・セン首相は勝利を主張した。

こういった経緯がある中で、フン・セン首相への抗議行動は、これまではあまり起こらなかった。いや、正確に言えば、起こせなくなっていた。暴力で対抗してくる政府の横暴に国民は恐怖に震え上がっていたからだ。

一九九七年、内戦の真っ只中を生きた女性へのインタビューを読んでみてほしい。

 

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私が小学校2年生のときでした。今日は朝7時から学校でまとめテストがあるので、朝の6時半に歩いて学校に向かい、着いたらすぐに勉強を始めました。  

しばらくたって、何人かの警察が入ってきて、「早く家に帰りなさい」と教室にいた私たち生徒と先生に叫びました。なぜだかよくわかりませんでしたが、彼らの言われたとおりに私たちは学校を出ました。家についたのは朝の8時頃だったと思います。家族もなぜ帰ってきたの?というような顔をしていました。 

そこから3日間ほど、地獄のような日々でした。外を見たら、家の前に、人の死体が10体ほど並んでいるのです。爆弾のような何かがふってくるのです。 

私たちの家は川沿いにあったのですが、家の上を銃弾のような何かが超えていきました。その「音」は耳から離れることはありませんでした。理由もわからず、家の前で死んでいた人たちは、その場に穴をほって埋めました。

あとになって知りました。裕福な家の人やビジネスマン、政府関係者は、皆すでに安全な場所に避難していたこと。私たちには、私たちの地域には、外へのつながりが何もありませんでした。だから、私たちの周りの人たちは、たくさん死にました。今でも鮮明に覚えています。

私の姉は、家の周りにたくさんあるうちの1つの縫製工場で働いていました。その頃は、アメリカやヨーロッパ、シンガポールと中国が主な取引先で、日本との取引はなかったそうです。

爆弾は、工場にもたくさん落ちました。何人死んだかわかりません。姉は幸い家に帰ってきました。しかし、姉の友達は死にました。姉が言うには、その工場では姉だけが生き残ったそうです。

みんな家が壊され、例え生き残ったとしても、お金も服も何もありませんでした。そうすると、みんな物を盗むようになりました。しかし、その人たちも皆死にました。誰もいない工場のドアを開け、商品である服などを盗もうとしたとき、そこには、踏むと爆発してしまう物体があったからです。そしてそれは全てベトナム製のものでした。フン・センさんがベトナムから尻に敷かれているルーツなのではないでしょうか。

もう、誰がいい人で、誰が悪い人なのか、わかりませんでした。

ある日、私の家に、兵士たちがきました。

母は「殺さないでください。子どもを育てる人がいなくなってしまいます。」

と叫んでいたことを覚えています。フン・センさん側の兵士でした。彼らもお金がなかったのです。家の中の人を殺しながら、金銭や金銭になるものを奪っていくことは知っていました。

 私たちは、2歳の弟、4歳の妹、6歳の私、8歳の兄、そして父と母で暮らしていました。幸い、母は、ネックレスだけを差し出し、命だけは免れることができました。

ご飯をまともに食べられる日はありませんでした。お金を得るのも毎日大変でした。生き残った豚を売ったりして、なんとか生活していました。しかし、周りに人もあまりいないので、売る人も見つかりませんでした。

当時は、お米1キロ300リエル、今は4000リエル。ガソリンも1リットル1200、今は4000リエルほどでした。

私は、これらの日々がなんだったのか、その当時は知りませんでした。その後、10歳くらいのとき、私は母に聞きました。母は、「国王シハヌークの子供とフン・センのけんかだよ」それから私はいろいろと知るようになりました。

あのときのことは、もう思い出したくありません。こわくて、こわくて、たまりません。だから、わたしは、今のカンボジアで、フン・センさんから違う人に、トップが変わってほしいと願っています。

来年、二〇一八年の総選挙がこわいです。フン・センさんが、来年の総選挙で負けたら戦争をしますと言っているのをFacebookで見ました。その投稿は一気に拡散されていました。

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この歴史を背負った国で、これから私ができることってなんだろう。

いつもながら、私は自分に問う。この問いをやめたら、同じ過ちを繰り返す気がしてならない。

 

目の前には、片手にビールを持ち、真っ黒な肌に、白い歯を見せるお父さんがいる。彼らの、今を生きるその人生は、無意識的に刻まれたものなのかもしれない。いや、それほど、あの歴史は残虐で、直視したら心が壊れてしまうものなのかもしれない。

私なんかに、到底わかるはずがないのだ。それでも、僕は、寄り添えるはずのない彼らの気持ちに一歩ずつ近づきたい。

歴史を学ぶ意味とはいったいなんだろう。

 

 

夜の盃を交わしたあと、眠りについた。翌日、朝5時、牛や鳥の鳴き声とともに目を覚ます。日中の暑さでくたくたになった体を起こすにはあまりに早すぎる時間だったが、

昨夜、友人にも「一緒に5時に起きて!」

と無理をいってしまったのだからしょうがない。

 

私にはもう一つ、ここにきた目的があった。縫製工場で働く女性たちへの取材である。カンボジアの経済を支える、80万人を超える、縫製工場の労働者たち。

労働者が出勤するために待つバス停に向かう。

「縫製工場で働いているんだよね?」

「うん」

「お仕事はどう?楽しい?」

「・・・」

「こんなに朝早くから仕事をして、しかも残業もあると聞いたけど大変じゃない?」

「んー・・・慣れたから・・・。」

 

二言話したところで大型トラックが女性たちを迎えにきた。彼女らは、トラックの荷台に少なくとも20人が乗り、工場に向かっていった。

その姿は、大変失礼な言い方であるが、どうもそれが、カンボジアでよくある光景、鳥や牛、豚が大量に運ばれていくあの姿と、何度自分の頭の中で打ち消そうとも、出てきてしまうのである。

きっとそれは、私の中で、このトラックに乗ることが危険であるのか、認識しているからだろう。

2015年、交通事故死者数は、日本が2万9083人に1人に対し、カンボジアは8106人に1人。そして死亡事故発生率は日本に比べて45倍にものぼる。

衣服労働者が2016年に5609件の交通事故に関与し、 このうち、103人の労働者が死亡、七四四六人が負傷したと言われている。そのうち、労働者を運ぶトラックは、2616件(47%)が発生したとしている。

  カンボジアにおいての移動手段はバイクが主流であり、道を走っていればもちろん事故の現場に出くわすことも多い。

カンボジアでは、50CC以下のバイクの運転に免許は必要ない。あちこちで、身体の小さな10歳にも満たないであろう少年少女が、2人のりしてバイクを運転する光景を見かける。

私は、工場でいくら最低賃金を引き上げてほしいと訴えたり、労働環境の改善を訴える前に、交通事故で命を落としてしまったら、元も子もないではないかと思うようになった。現地の詳しい人に聞くしかない。

 

外国人が数多く在住し、高級エリアといわれているプノンペン・ボンケンコンエリアにある清潔感溢れるカフェで、その女性とお会いすることになった。

 カンボジア政府承認の国際NGOとして、救急車など緊急車両の輸送や救急医療システム構築を行う、サイドバイサイドインターナショナル(SISB)を二〇〇四年に立ち上げた佐々木明子さんだ。

初対面にも関わらず、佐々木さんは、交通事故がなぜこんなにも多発するのか。死亡者数がなぜこんなにも多いのか。彼女が知っていることや様々なデータを丁寧に私に教えてくれた。

これは単純に、多くの人が乗ることによる体重超過によって、運転手の運転操作が困難になる。そして何より問題なのは、この国では交通事故が起きてからの対応は、「助かる命も助からない」というのである。

「止血をするという発想がないのです。事故が起きても、ただ人々が集まりその場で立ち尽くしているだけ」

交通事故で負傷した人々は呻き声をあげ助けを求めるが、周りの人々は、ただ、「救急車が来るから待て」と叫ぶのみ。

もちろん救急車がすぐ来る保証はない。適切な処置をすることなく、ただ時が過ぎるのを待つ。

救急車の数が足りないために、他の事故によって遠方へ救急車が出動すると、その救急車が戻るのを待たなければならないという現実もある。

「そしてもう1つ、民間救急車によって「貧困」重傷者が置き去りになることもあるんです」

今ではだいぶ数が減ってきたというが、民間救急車は有料であるため、お金のない貧しい村の人々だとわかると、負傷者を搬送しない。けが人が目の前にいるのに、だ。搬送されなかった貧しい人々は、その後国立病院の救急隊に連絡し、次の救急車が来るのを待ち続ける。そのタイムラグによって死亡するケースも頻発する。

他にも、民間救急車が有料であることの弊害はある。貧しい人たちはお金を払うことをためらい、救急車を呼ぼうとしない。また、呼んだとしてもあまりに高い料金を請求され、借金をしてしまう。

そんなカンボジアにも、道路交通法がある。二〇一五年一月九日、改定された。

 

・ヘルメット着用義務違反5,000リエル(約135円)(運転者)

・無免許運転6日間~1ヶ月間の拘留又は罰金10万(約2800円)~80万(約22,400円)リエル(改正前:25,000(約700円)~200,000(約5600円)リエル)

  • 酒酔い運転1ヶ月間~6ヶ月間の拘留又は80万(22,400円)~4,00万(112,000円)リエル(改正前:6日間~6ヶ月間の拘留又は2万5千(約700円)~1,00万リエル(28,000円))
  • 運転中における携帯電話通話禁止違反3千リエル(約85円)

 

出典:在カンボジア日本国大使館「安全情報(3月)」

 

道路交通法改正前だと、約700円さえ払えば、無免許運転や酒酔い運転の違反がなかったことになる。もちろん日本のように違反切符を切られることもない。

この料金設定で、法律違反を減らすことが難しいのは明らかだ。
そこで、政府は法律を改正したのだが、(酒酔い運転がいきなり約11万2000円に上がることもおかしな話ではある)。

この法律がきちんと適用されているかといえば、答えはNoだ。

警察にいくらかのお金をその場で支払えばすぐに解放される(カンボジア人は約400円、日本人は約550円払っていた)。支払われたお金は警察のポケットに入る。

 

「公務員は給料が低く、仕方のないこと」

カンボジア人はこう口をそろえる。

世界トップクラスの汚職国、カンボジアなのである。二〇一四年の汚職認識指数は調査対象となった175ヶ国のうち156ヶ国で、北朝鮮、アフガニスタン、ビルマの次にアジア太平洋地域ではランクインした。この調査は開発銀行が行っている。

こうした小さな積み重ねが、大きな問題を引き起こしそうな気がしてならない。

 

現地紙によると、法律が改正されたあとのほうが交通事故の死亡者の数が増えているとのこと。なんという皮肉だろうか。

警察と呼ぶに値するかわからない、彼らの働く姿勢と、政府による怠慢がもたらすもの、それは現地人の倫理といっては押し付けがましいだろうか。

こんな話もある。

「縫製労働者輸送バスの運転手の9割が無免許」

カンボジアの内務省が発表したデータである。

 

一般的な観光客用のバス運転手は全員とまでは言わないまでも、運転免許を持っているものの、スピードの出しすぎや、飲酒運転に関しては、「していないとは言えない」という。

工場に勤めるある男性スタッフからこんな話も聞いた。

「バイク通勤している女の子が、道端にバイクをとめていたら、労働者を乗せたトラックが運転を誤り、そこにいた女の子を轢き殺してしまった」

愕然とした。さらに彼はこう続ける。

「しかし、通勤に関しては、私たちの管轄ではありません。そこまで会社の責任にされてしまうのはおかしな話です。契約していませんし、そこは彼女たちの自由ですから」

近所をまわる労働者を載せるトラックは、1ヶ月10ドルを支払っているとのことである。

カンボジア政府の発表したことを、そのまま私のルポとして綴るわけにはいかない。それはわかっている。この無免許運転に関しても、関係各所では疑問の声が上がっている。けれど、カンボジアの人ですらわからないことを、私が答えを決めつけることは、これまで通り、到底不可能なのである。

だから、こうして人から聞き、当事者に聞いたことを、そのまま記すしかない。そもそも、この道路交通法が改正されたことも、前の交通法の内容がどんなことであったかも、知っている人はほとんどいなかった。

縫製工場で働くその女の子に手をふって私たちは見送った。

 

 

 

 

伝える意味を考える

 

私は日本での日常に戻っていった。もうお金がなかった。それでもふつふつとこれを形にしなければ。と、思い始めたらもう止まらなかった。

カンボジアの話だ。日本にとって、いや世界にとって、ある一国の途上国の話だ。日本国民おろかメディアにすら見向きもされないだろう。それだけニュースの価値はないテーマをいかに伝えるか。ここが私のテーマだった。

食って行けなければプロじゃない。そんなこと言われても僕には関係ない。そこに伝えたいことがあるのだ。

そのためにはとにかく現地に通うこと。

そう自分に言い聞かせた。

 

 二〇一六年、大晦日の三が日で、帰省しているにも関わらず、朝から晩まで、カフェに入り浸り、何百ページに及ぶ英語の資料や記事を読み込んだ。

縫製工場の実態を探る取材は、これまででわかった通り、ある程度は政治と絡んでいるものの、実感としては、また別の問題であると思っていた。

しかし、想像していた以上に、労働者と政治の距離が近い。2017年6月に行われた地方選挙の投票率が90%を超えたことからもわかるだろう。

それは、政権与党、フン・セン首相がおよそ70万人の労働者の票を見過ごせないからであろうと推測する。何度も強調しておくが、縫製業は格好のテーマなのである。

政治のアジェンダとして扱い、支持率アップをはかるために利用しているということだ。「最低賃金をあげます」と言えば、労働者たちは票を入れてくれるに違いない。そう考えているのはもちろん野党もそうである。

労働搾取という問題は、政権を倒すために、様々な人間たちの私利私欲によって動いているという現実があった。

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