田中将介

-tanaka masayuki-

「さようなら民主主義」独裁のフン・セン政権弾圧の全貌 第四章:ファッションの生産地 下請け工場のからくり

カンボジア

「さようなら民主主義」独裁のフン・セン政権 弾圧の全貌〜PKO派遣から25年 今カンボジアでいったい何が起きているのか〜

 

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第四章:ファッションの生産地 下請け工場のからくり

縫製工場にアポなしで突撃

 

これまでの取材は、カンボジア全体を把握することに努めていた。だから、現地で誘いがあればどこでも足を運んだし、この国の歴史を振り返るために、何度もその虐殺に関連のある土地を訪れた。

しかし、今回は明確なテーマをもってきた。

「縫製工場とはなにか」

前回は、各地にある縫製工場を簡単に見て回ったものの、それは、現地の友人に連れて行ってもらったこともあり、私は正確な場所を把握していなかったし、目的もそれとは異なっていた。

 

前回の取材で、初めて大規模な工場での労働者たちに出会ったとき、その労働者の数に驚いた。私はそこに労働侵害があるという一切の疑いのない眼鏡をかけ、彼女たちを眺めていた。そんな自分に怒りを覚えながらも、日本の報道や世界の人権団体から上がってくる、加速した労働侵害の報告に目を通していたためか、以前よりもさらに色の濃い眼鏡をかけていた。

 

時を当時に戻す。バイクを走らせ向かった先は、もちろん、縫製工場だ。まだ何の人脈も、手がかりもない私は、とりあえず突っ込んでみるしかないのだ。どこに工場があったのか全く覚えていなかった私は、現地の人や在住者への聞き取りから始め、そこでなんとなく見えてきたプノンペン市内の工場があるエリアに向かった。

基本的に、工場の中に、部外者が入れることはない。有名な団体でも、入ることは厳しい。セキュリティのチェックが厳しいのだ。いくらカンボジアといえど、そこは守られている。しかし、私はそれを承知できている。いってみなければ、何が起きるかわからないからである。

早速、その工場に入れるかどうか、セキュリティガードの人に話を持ちかけた。少しやりとりをしながら、持っていたプレス証を見せていると、中からそこで働いているであろうと思われる女性が出てきて、その子にも話すと、意外にもあっさりと工場内の敷地に入ることができた。

しかし、あっさりと外に出ざるを得ない状況になったのも事実である。

高まった胸をおさえる自分に彼女は

「どこの部署をみたい〜?」

と柔らかい笑顔で話しかけてくれる。

部屋の窓から、厳しく、渋い顔をした女性が、その彼女に話しかけた。

 どうやら、「だめだ。出て行け」

と言っているようだった。

彼女は「ごめんね」と、非常に申し訳なさそうに謝ってきたので、こちらこそ申し訳ないと胸が苦しくなったものの、その初日のやりとりに、少しばかりの希望と、このカンボジア人の心からの優しさを懐かしみ、改めてこの国が好きであることを再確認した。

後ろから彼女の妹がやってきて、2人で仲良くバイクに乗り、帰っていった。時間は17時過ぎ。今日は残業なしなのだろうか。それとも毎日こんな調子なのだろうか。現場スタッフなのかわからないが、中国人と思われる男の人も、満面の笑みで彼女たちを見送った。姉妹2人の表情も、仕事終わりとは思えないほど明るい。

私がこれまで頭の中に抱えている調査レポートたちが一瞬で裏切られたような光景を初日に迎えたものの、そりゃ、こういう工場もあるよな、と自分の中で、この事実を噛み砕いた。

その後、無数にちらばるその工場たちに、傍から見たら何をしているのだと思われるほどに、直撃し、そして撃沈、その繰り返しであった。毎回、困った表情をされるし、もう話しかけるのもしんどくなってきた。

中に入れたところで、私は何がしたいのだ、見て終わりじゃ何もならないだろう。と、無性に虚しくなりつつあった。それでも、まだ初日だ。まずは、「絶対に入ることができない」「セキュリティがきちんとしている」ということがわかった時点で、合格ではないか。と自分に言い聞かせながら、話しかけたその工場の入り口で、

「わかった、明日の7時半にきて」

という男性の言葉が私の耳に入ってきた。

「よっしゃ」

テンションが上がるのをこらきれないまま、

「じゃあ、明日ね〜!」

と満面の笑みで立ち去る私と、渋い顔をするガードマン。帰り道、バイクを走らせながら、少しばかり希望が繋がった喜びとともに、

「あの人はセキュリティガードだし何の権限もなさそうなのに、本当に入ることができるのか。しかも朝の7時半。いきなり強行スケジュールだな」

と疑いつつも、労働者たちは、毎日この時間なのだ。行ってみるしかないと、宿に着き、すぐに目を閉じた。

朝向かってみると、確かにその男性はいた。クルマやバイクの行き来が非常に激しい慌ただしい朝であった。

工場の前には、屋台が並び、工場で働く女性たちが飲み物や食べ物を買いにくる。そこで見た女性たちは、綺麗な格好をしていることが印象的であった。

鮮やかな黄色のガーディガンをはおり、ピンクと白の混ざったワンピース。プノンペンだからこんなにおしゃれな女性がいるのか?そんな疑問を持ちつつ、その服装に見とれていると、その男性はまた他の女性を連れてきて、用件を説明してくれという。しかし、その説明はあっけなく否定され、許可は出ない。これにて私の初日、そして翌日の工場取材は終わったのである。

工場の周りをうろつくことにした私は、おもったよりも奥行きがあり、老朽化しているとまでは感じない、ごく普通の建物であるように見えた。

結局、その場所で1時間ほど、彼女たちと同じ飲み物、カンボジア特有の練乳の入った甘ったるいコーヒーを飲みながら、その場で待ってはみたものの特に何も起こることはなかった。目の前には数えきることは出来るはずもない無数のハエが、積まれたゴミにたかっていた。

さて、前回と全く同じことになってしまった。早速、どうしたらよいのか路頭に迷ってしまった。ユニクロの工場がどこにあるのか把握しているものの、都心からは非常に離れており、何度も通える距離ではない。通訳をつかまえるなど、きちんとした取材ができる体制が整ってから攻める場所だと決めていた。

そこで、私は原点に立ち戻ることにした。

「現地の人に話を聞く」

 

 

 

工場に詰まった希望と落胆

 

 

朝の6時に、いつもながら重たい身体を起こす。日本では比べ物にならないほど、気候や言語、セキュリティや、交通など、いつもよりストレスと疲労が蓄積し、睡魔がいつもより強い。さらには、腹痛がいつもつきまとい、どこか不調の原因をそこに持っていき、ベッドとはいつもより仲良しになる。それでも、ここにきた理由を考えると、ぱっと目が覚める。

私は現地でブランドを立ち上げた日本人の協力を得て、カンボジアに進出する日系工場の内部に入る許可を得ることができた。今日はその取材である。

工場は、プノンペン市内からバイクで一時間ほどにあるPPSEZと呼ばれる、経済特別区域にあった。カンボジアには経済特別区域は現在4つあり、経済発展のために法的、行政的に特別な地位を与えられている地域である。

1時間以上、いや私は初めて行く場所までの道ではいつもゆっくり周りを見ながらバイクを走らせるため、1時間半以上はかかっただろうか、気がつけば、暑さで頭がぼーっとしはじめ、肌が日焼けによって、すぐに真っ赤になりはじめる。改めて、バイク事故への恐怖を感じ、我に返りながら、少し道を通り越すも、無事、経済特区に到着した。

中に入ると、先ほどまでの物を積んだ大きな2トントラックの大群たちの騒がしさとは打って変わって、車はおろか、バイクすら走っていない。道はあまりに広く、経済特区の敷地も異常なまでに広い。確かにいくつもの企業、工場が辺り一面に広がっている。

私はいつもの通り、バイクに乗って散歩を始める。経済特区内をうろうろしていると、現地の人たちが出入りする通路を見つけたので、そこから外に出てみると、一気に景色が変わる。

木の板一枚の上に、日用品を並べた人たちが、気だるそうに横たわっている。少し横道にそれると、小さな部屋の集合体で、新しく綺麗なアパートメントがいくつもある。経済特区の影響で、住まいを移った人たちだろうか。牛や犬たちが、大量に積まれたゴミをあさって、お腹を満たしている。見慣れた光景である。

道沿いにバイクを走らせると、現地の人達が緑と黄色の鮮やかなアパートメントをせっせとつくっている。こんなに家を作って誰が住むのだろうか。この村に入ってくる小奇麗な格好をした白人を見ることはないのであろう、どこを通っても口をあけたままどこまでも子どもたちの視線が追いかけてくる。これも田舎にいけばよくあることだ。

約束の時間に近くなったので、工場に向かうため、その場を離れた。

工場を案内してくれたのは、日本人のSさん。前まではカバンの工場で働いていたのだが、経営が悪化し、雇用を打ち切られてしまったという。今は工場で生産管理の仕事をしている。中に入り、冷たい空気がいっぱいにつまった一室で少しばかり言葉を交わし、早速工場の中を見せてもらった。

従業員は700人ほど、Tシャツによってきちんとそれぞれの役割がわかるようになっている。カンボジア人の中にも、技術や能力によって、「班長」「副班長」の役割が決まっている。

日本語を流暢に扱うカンボジア人のSくんは、責任者を任され、黒のTシャツを身にまとっている。他にも、黒いTシャツを着ているのは、日本人はじめ、中国人人、ベトナム人2人、フィリピン人2人である。

工場の中に入ると、ミシンの音が鳴り響いていた。確かに中はもわっとしているものの、特別な大型の機械で、ミストを飛ばしながら、できるだけ涼しくなるように整備が整っている。そのせいか少しだけ、湿度が高いですよという匂いが鼻につくが、特段、過ごしにくいというわけでもない。さすがに日系といっても、日本の会社のように、クーラーががんがん効いて寒さで耐えられないような環境にはない。そうするには、あまりに工場内が広すぎる。といっても温度計は33度を記録していた。

働く人たちを一人一人見ていくと、あまりに幅広い年齢層に驚く。女性だけでなく髪を金色に染めた遊び盛りの若い男の子たちも多く目にした。これは珍しいという。

私たちは、工場で働く労働者とひとくくりにしがちであるが、それぞれの年代に複雑な背景があり、考え方も明らかに異なる。それは、日本や他の外国と比べることは、あまりに無意味な行為だ。

落ち着き仕事に集中する年齢層が高めの女性を見ながら、工場の人員を管理する若いスタッフは

「年齢層が高い人たちとどう接すればよいか難しい」

とぼそっと漏らす。

現在50歳の女性は、ポルポト政権時、8歳、ポルポトだけでなく、当時は、ベトナム戦争もあった。

Sさんも頭を悩ます。

「教育を受けてきた人はあの年齢層はほぼ皆無。彼女たちを指導するということは、いかに大変であるか」

彼女たちだって、好きでその時代を生きてきたわけではない。その世代と日常で接する機会は私ですら当たり前となっているが、果たしてどれほど生きづらい想いをしてきたか、話を聞く度に、胸が締め付けられる。

 

生産性を考えろ、貯金しろ、未来を考えろといった、私たちにとって当たり前のアドバイスは、彼らにとってあまりに空虚な言葉だ。

この工場の勤務時間は、7時半〜11時半、1時間の休憩をはさみ16時半まで。他の工場では、7時から16時まで、といった勤務体系もあるが、おおよそこの時間での仕事が多い。カンボジアでは普通の勤務時間である。

さらっと、残業について尋ねてみた。

「残業はどれくらいあるんですか?」

無論、私が「残業24時間」などという答えを求めているわけではない。一人一人によって異なるそれぞれの考え方を聞きたいのだ。その答えは私にとっては都合のよいものになった。

「今の時期は残業はほとんどありません。受注している仕事量が、いまのままで対処できるからです」

これは決して、売上が立たないというわけではない。あまりに受注数が少なければ、従業員を雇えないため問題だが、受注数を増やすと今度はあまりに労働が過酷になり、労働者に無理を強いてしまう。

「上手くバランスを保つことが、工場を運営する上で大切になってきます」

だからといって、決して、お給料を減らすことはない。あくまできちんと成り立たせることが重要なわけだ。

一方で、「残業がない」という理由で辞めてしまう労働者もいる。

残業でお金を稼ぐということは、どこの国だって変わらない。

 

経営者の視点からすると、現段階では、残業をさせればさせるほど赤字になってしまうため、できるだけ残業は避けたいという。

労働者の能力による生産性によって、商品の生産量が変わってくるからだ。

「16時以降の残業は60%の人が、18時以降の残業は30%くらいの人がします」

カンボジアの労働者たちは、アンケートで、94%の人々が残業をしている。と答えている。

ある人にとっては、残業とは「生きていくための必要不可欠なもの」であるかもしれないし、工場のスタッフにとっては、「経営していくにあたって必要なもの」かもしれない。またある人にとっては「仕方なく労働者に払っている必要経費」かもしれない。

労働の技術をあげるためには、やはり継続して、長く働いてもらうことが必須だ。そのためには、残業による給料の問題だけではなく、労働者たちの心を射止めるには、労働+何か施策をうたなければならない。この工場では、識字教室を毎日実施している。

それにしても、一つ一つの服が出来上がる工程を順々に見ていくと、皆器用にそれぞれの役割を果たしている。

途中の通路には、労働者たちが自由に飲める水も用意されている。一時期は、だらだらと、遊びの延長で仕事をしていたというが、最近は非常に仕事に取り組む姿勢が上がってきたそうだ。

私から見たら、皆真剣そのもの。集中力を切らさず、会話も聞こえず、黙々と目の前の作業をしているプロフェッショナルたちだ。

完成した製品は日本をはじめさまざまな企業と取引している。日本でもよく見かけるような、美しいジャケットを目にした途端、思わず興奮で声をあげてしまった。この工場では、私が見る限り全工程で、裁断から最終チェックまで全て人の手を介していた。

 

 敷地内には、ずらっと並べられたバイクの数は見た限り100台は超える。しかも私の乗っているバイクよりもはるかに高級な、そして大きいバイクがいくつも並んでいる。てっきり皆でトラックの荷台で通勤しているものと思いきや、それぞれバイクをもっている。

 彼らのお金はどこから出てくるのだろうか。聞くところによれば、全てローンで購入、一括で払う値段と月々払う値段は同じであるにも関わらず、彼らは月々の料金が安いと思い込み、結局お金が払えなくなり、売ることになってしまうことも多々あるとか。

 将来を予測して行動することができないとカンボジア人を評価する人もいるが、これもまた同じであろう。全てが教育によるものとは言い切ることはできないが、歴史を含めた国民性もあるのだろう。

 

 

縫製工場で働く人たちは「かわいそう」なのか

 

「かわいそうな」労働者像をつくってきた私は、この土地で過ごしてきたこれまでのことを思い浮かべていくと、その像にあてはまる意見を耳にすることはほとんどなかった。

 深刻そうな様子は見せず、労働環境に対してそこまでの不満はない。「女工哀史」を描きたがっているのは、われわれの方ではなかっただろうか。

 しかし、果たして「彼らは幸せでした」で終わらせる話なはずがない。

 これまでの労働者たちの話で垣間見えた話を想像してみる。その中で1つの違和感が浮かび上がってきた。

 それは、彼ら自身が問題であるはずのことに、問題と思っていないこと。

さらには、問題と思っていても、納得している、いや、納得するしかない状況に陥ってしまう。こちらのほうが、根本的な問題なのではないか。これこそ、声をあげられていない人たちなのではないか。

 これまで労働者たちは幾度となく声をあげてきた。しかし、その声をあげる気力も希望もなくなってしまうのではないか。

 さらなる検証と取材、報告書との照らし合わせが大事だと感じた私は、自らを奮い立たせ、取材を続けた。その中で、「失神」や、「残業」に対して、労働者が悪い。そんな声を、あまり耳にしたくはなかったが、聞こえてくる。それも、1人や2人の話ではなく、聞く人聞く人、ましてや、労働者自身がそう答えることもあった。

 決して、「彼らは幸せだと思っているからいいではないか」というスタンスをとりたいなどとはみじんも思っていない。

何度も強調するが、私は私が聞いた事実を書くということに専念するのみである。

 確かに弱い立場である労働者を守るべきだと声をあげる気持ちもわかる。

けれど、彼らがもし、守られたくないとしたら?守る必要がないとしたら?

それよりもそれを超えた願いがあるとしたら?

 

 

 

一人歩きする労働者の集団失神

 

 縫製工場で働く人たちは世界中にいるわけであるが、カンボジアのみで報告されているものの1つに、集団失神が頻繁に起きているということはこれまでも述べてきた。

 集団失神とはどういうことなのか。まさに、文字通り、一気に、そして突然、何名かが、同時に意識を失うということなのか。私にはにわかに信じられなかった。確かに、爆発などの大きな衝撃が起これば、一気に気を失うことがあるかもわからないが、頻繁に起きているという事の重大さをいまいちつかむことができない。

 そもそも、失神するということに対して、日本で起きた話もあまり聞かないし、もちろん目の前で見たこともない。その異常性がどれほどのものなのであろうか、理解することができないので、このことについても、力をいれて調査し、話を聞くことにしたわけである。

 失神は、一般的には、過労、栄養不足などの理由で起こっているといわれている。労働者たちなら全てがあてはまりそうではあるが、なぜカンボジアだけ、このような現象が報告されるのか。話を聞くうちに、私の中ですとんと腹落ちした。

 

 現地で働く人たちに聞くと意外にも、ドライな感想が返ってくる。

「彼らが倒れるのは、圧倒的に彼らの責任ですよ。夜中までお酒を飲んで、遊ぶ。翌日のことは考えていませんから」

「私が見ていて思うのは、集団失神は、働きたくないから私もついでに倒れてしまえ!といって倒れる気がします。あとは、やはり強い臭いですかね」

 カンボジア人に向けた人材紹介会社を営む鳴海さんはこう話す。

「とにかくカンボジア人はもらった給料の使い方が特殊です。

 家族への仕送りを第一に考えるので、自分たちの食事を削ってまで、家族に仕送りします。栄養失調は自ら選択しているようなものです」

 彼らの食事は驚くほど少ない。野菜と豚肉を合わせた料理にご飯を食べれればまだいいほうである。ちなみにこれはとにかくうまい。日本で食べる高級寿司よりはるかにうまいと言えば言い過ぎか。

 または鶏がらスープとご飯。本当にお金のない人は、大量のご飯と少し辛味の聞いたつけもので食事を済ます。

 鳴海さんは続ける。

「さらに職業選択の自由も保証されているわけですから彼女たちはやめることもできるわけです。そして実際に辞める人もいます。

 それは、大変だからという理由が主ではなく、妊娠したからなど他の理由でやめる場合が多いです。何より、自分が何にお金を遣うか、そんなこと自分で決めるしかないですから」

 現地ブランドを立ち上げた日本人の方はこうも話す。

「工場はよっぽどエシカルです。大きな工場では雇用を生むことに対しては非常に大きな価値がある。

 確かに大量生産によって、それぞれが担当する部門が決まっており、服を一人で作ることには長けていないことは問題であるが、一人一人が食べていくことになんら問題はありません」

 

 そうなのだ。私たちは、彼女たちを単純労働、奴隷労働などと勝手に思い込みがちであるが、縫製とは、誇りある、技術ある仕事なのだ。

 私だって、縫製の仕事を目の前で見て、彼女たちの叫びを目の当たりにして、勝手に「かわいそうな仕事をしているな」と思っていた。

 しかし、「世界で通用するブランドをつくりたい。働いている人たちに誇りをもってもらいたい」という社長もいる。

 縫製は楽しい仕事であるべきなのだ。立派な職業であるべきなのだ。ミシンを使うには技術が必要だ。本来は苦役ではない。どう感じるかは、 拘束時間の長さ、何をつくるか、そして賃金によって変わってくるだろう。

 縫製といえば、搾取工場や貧困を連想するが、歴史的に見るとそうだったわけではないのだ。日本でものづくりに励む職人さんたちは、崇拝されるのに、なぜ彼女たちは蔑まれなければならないのか。それはまぎれもなく、私自身に投げかけた言葉だ。私の中の景色はがらっと変わった。彼らに誇りをもってもらう。そのためにわたしたちが、いや、わたしができることってなんだ。

 楽しそうに働いている現場を伝えることが正解なのか。それとも苦しそうに働いている人の生活を切り取るのが正解なのか。どちらも正解で、どちらも不正解である気がした。

 

これまでに書いてきた話の中でそれぞれの人間に都合よいものとなっているが、もちろんこの国にも法律は存在する。そして、カンボジアも国際条約に加盟している。しかし、このありさまなのだ。決して、労働侵害を告発するものではなく、どの場面においても、労働者にとっても、法律などあってないようなものだ。力関係は圧倒的に、雇っているオーナーが強いに決まっている。

例えば、法律では性的嫌がらせを禁止しているが、その定義をしていない。つまり、これは性的嫌がらせではないとオーナーが主張すれば、適用されないということになる。いかようにも解釈が可能という法律が、カンボジアには至るところに転がっている。

 

 

誰にとって理不尽な契約方式?

 

「保険は基本的に会社の負担になります」

「契約は3ヶ月から半年契約の人ばかりです。オーナーも労働者もわかっています」

多くの工場は、短期契約を繰り返し、労働者に適切な賃金を払わないよう上手に逃れていると多くの報告書では批判されている。

彼女たちの大半は、きちんと、自分がどういった契約で働いているのか、理解しているように思えた。なぜなら、

インタビューで「私はいくら給料をもらっていて、こういう契約なので、こうしたらよりお金がもらえます」

と明確に答えるのだ。

もちろん、家族がその契約を管理していることもあるという人もいるから、一概にそうとは言い切れないものの、契約書を書いていることは記憶にあるという労働者が大半である。

カンボジアの労働形式について、なんとか資料に食らいついてみると、

FDC(fixed Duration Contract))契約、UDC(Unfixed Duration Contract)契約、SDC(Specific Duration Contract)が主な契約になるらしい。

 2年を超えれば、FDC契約ではなくUDC契約となるが、季節やニーズによって変わる不安定な産業のため、工場のオーナーにとっては、短期で契約を結びたいというわけだ。

また、工場のオーナーはこうも話す。「利益はなるべく出したい。そのために、法律に基づいて、2年間を超える短期契約を繰り返すしかない」

つまりどういうことか。

日本で言えば、契約社員として雇い、正社員になる前に、契約を一旦解除してからもう一度契約社員として契約を結ぶ。そうすることによって、オーナーは社会保険など、余分なお金を払わなくてすむ。会社にとって好都合なのである。どこの国もやることは変らない。

 

 総じて、労働者たちが働いていく上で、1番こわいこと、それは、働けなくなることで、お金がなくなってしまうことである。

だから、彼らは、ものを言うことができない。ここに大きな不和を感じる。

ものをいうと、オーナーから「解雇」されるかもしれない恐怖がある。立場の弱い労働者にとって、何か不満はあっても、簡単に口にできない。例え、労働者たちは、「お金がもらえるから今の仕事のままでいい」と答える人も多かった。しかし、その言葉の背景には、少なからず不満があるだろうと推測できる。  

「残業がない」「残業ばかり」「給料が低い」これまでの不満は少なからず出るし、私は簡単にその原因を国際ブランドのせいにしていては、いつまでも、このまま時代が進んでいく。そんな思いを強めてきた。

その一方で、労働者たちにとっても、仕事の苦労は当たり前の話と認識している。

「私たち労働者たちは、オーナーたちに何かものをいうことはできないですし、何かをいっても変わることはないと知っています。そのため、政府に対して抗議をすることになります。そこにしか出口はありません。

オーナーは自由に、工場を潰す判断をできるわけですから。文句を言うなら辞めて、他の職につけばいい。それだけの話です。」

その一例が、妊婦への対応だ。

工場のスタッフはこう話す。

「確かに、妊婦さんをやめさせることはあります。例えば、今まで就いていた職とは異なる仕事をしてもらったりして、プレッシャーをかけることもなくはないです。けれど、経営者にとっては、同じ給料を払うなら作業できない人たちにお金を払うのはなるべく避けたいわけです。嫉妬やいじめなど労働者同士の関係が悪くなれば、工場全体に悪影響を及ぼす可能性もあるわけで。このことは、どの工場のどの労働者もわかっていることです。」

 経営者にとって、妊婦さんは大きな悩みの種となっている一方で、職を失いたくない、お金を稼ぎたい妊婦さんは、無理をしてでも働き続ける。

「大きな工場であれば、一人くらいやめても経営者は気にしないのです。」と工場のスタッフはいう。

 労働環境改善を求める団体から発される「妊婦への差別」や「出産のために仕事を休む分、他の人たちと同じ給料を与えるわけにはいかない」という経営者、そして「差別されている」と声をあげる労働者、様々な意見が入り混じっていた。

 

 

強者の論理で世の中は成り立っていることを突きつけられた。

 もう私のやることは終わったのだ。彼らが幸せであればそれでいいのだ。私たちは私たちの生活に多少の不平、不満はありながらもある程度生活に満足しているように、彼らも満足しているのだ。何より、それを好んでやっているのだ。

「かわいそう」という先入観の押し付けなどやめたほうがいい。4畳1間にシェアして暮らしていたって、彼らは何とも思わない。幸せだ。日本の満員電車のほうがよっぽど不幸せだろう。

彼らにとって職業は選べないというのは違う。願えば必ず行ける場所などない。本当に生活に困って、売春に走らざるを得ない人も見てきた。けれど、それはカンボジアだって日本だって同じなのだ。

「そりゃそうだ」と当たり前のことがすんなりと自らの頭に浮かび、なんとかかき消そうとするが答えは見つからない。

急に食欲がなくなってきた。味が濃くて早死しますよといわんばかりの調味料の多さに混ざったその肉と野菜があまりにおいしいのにそれすら食べる元気もなくなってしまった。かといってこのまま家にも帰りたくない。

とぼとぼ歩いたその路地裏には、小さく3ドルと書かれたマッサージの看板が出ていた。よくわからないけれど、仕方なく入ってみた。

1時間3ドルなのに15分で終了させられたマッサージ師は、12歳の少女で、その細く弱い指には何も心地よさを感じず、その時間の経過の速さに何か告げ口を叩きたくなったが、純粋無垢なその表情を見て私は帰路についた。

 

家賃35ドル生活の描き方

 

 まさか人が通るはずないと思うような、ドブ川の小さな細い道に沿って進み、左に曲がると、そこはアパートの入口だった。いくつもある林立したアパートの部屋の一部屋、そこがプッティーさん一家が住む場所であった。

 迷走してひきこもりがちだった私は多少の元気を取り戻し、これまでもお世話になり続けている活動家たちのグループにこうメッセージを投げかけた。

「工場で働いている仲の良い友人はいないか?」

 Facebookが命の次に大切なカンボジア人の彼らの返事は、一分もたたずに返ってきた。1番に答えたのはやはりハック。

「僕の婚約者とその母親、姉、全員工場で働いているよ。明日一緒にご飯食べよう」

と、とんとん拍子で進んでいった。

 こういうわけで、プッティーさん一家にお邪魔したのである。ハックの仕事が終わる17時に合わせて待ち合わせをし、バイクを走らせた。

 その途中で、「今日家を引っ越したばかりなんだ」とハックが言った。なぜ引っ越したのかを尋ねると、「前住んでいた家が取り壊されるから」らしい。

 「ああ。ここでもそういうことが起きているのか」と思った。これまでの取材を思い出し、また怒りがこみ上げる。

 カンボジア各地で、政府が外国企業と結びつき、土地を差し出すため、強制的にそこに住む住民を排除するという出来事があまりに日常的に起きている。

 本来なら補償があるべきなのにこの国ではもう仕方のないこととして扱われている。声を挙げ続け補償を求める人たちも数多くいる。しかし、プッティーさん一家はその命令をだまって受け入れた。

 以前住んでいたという家に立ち寄ると、家を出る直前の家族たちが、楽しそうに会話をしていた。その一部屋は35ドル。物で溢れ、人が住めるとは思えないような衛生環境、それでも彼女たちは、ここで暮らすしかやっていくことができなかった。首都・プノンペンの物価が生活様式を物語っている。

 その後、プッティーさんの新居に到着した。荷物だけが無造作に置かれた部屋だった。まずは砂にまみれた床の掃除からスタートした。なぜか、私も引っ越しのお手伝いをしていたというわけであるが、それがまた楽しかった。なんだか家族の一員になったような錯覚に陥る。

 取材する気満々で来たけれども、もはやどうでもよくなってきてしまった。それにいきなり話を聞き出すほど、面白くない取材だと自らを納得させ、まずは同じ時間を過ごすことにした。

 ハックは、野菜を売りに来た女性にためらう様子もなく品物をまとめて買った。

「え、なんで買ったの?」

と聞いたらあっさり

「誰も買ってくれないらしいから」だと言った。

へえ〜、そういうものなのか。これも文化なのか、それとも彼の性格なのか。

 家の空間にはみじんも快適さを感じなかった。しかし、とことん不快な気分になるはずのその異質な部屋なのにも関わらず、その不快さは少し和らいでいた。なぜだろう。気持ちが満たされているから?

 ジーンズは雨で濡れ、山盛りになった砂とごみが家の中に集められている。その砂が足の裏を常につきまとう。トイレのタイルのような床が一般的だ。安そうなプラスチックのイスと、今にも折れそうな木の板がくつろぎスペースだ。

 プッティーさんのお姉さんの家族も隣の家で暮らしていた。

お姉さんの夫はとにかく人の世話が大好きで、絶えずにこにこしていた。私に何度も「ここに座れ」とイスを用意し、扇風機を私に向けてくれた。さらには無類の酒好きで、とにかく乾杯をしたがり、お酒を一気に飲むことを強要してくるのが少しやっかいではあったが、なんとなく憎めなかった。結局、べろんべろんに酔っ払った私は、家までハックに送ってもらった。

 私はこの様子やこの時を過ごして、どう描いていくべきか、迷っているわけである。

「こんな狭い小さなところに住んでいて、かわいそうな家族」とも、「満足できる部屋ではないけれども、彼女たちは日常に幸せを噛み締めている」とも書けるわけであるが、果たして、こんな一端の人間である私に、結論づけることなどできるはずはないよなと自らと会話したあげく、やはり、この葛藤をそのまま書くことしかできないのだ。

 

 

 

物価上昇を読み解く

 

 いまさらではあるが、プノンペンの物価の上昇は、もろに直撃する。私の生活に。

もちろん、縫製労働者も。いや、全ての、カンボジアに息づく人間に。やはり「生活がは苦しい」のだろうか。生活が苦しいとは何なのか。金銭的な話に限ったことなのだろうか。

 もちろん、プノンペン含めカンボジアは驚くほど急激に、市場での野菜、コメ、肉、全ての価格が上昇している。

工場で働くある女性は、残業を含めて230ドル稼いだものの、家賃の上昇により、生活は昔となんら変わりないと答える。

 労働組合や組合活動家たちの国際的な組織であるアジア最低賃金同盟は、カンボジアに推奨する生活賃金水準は月額およそ285ドルであるとしている。現在の最低賃金は153ドルである。

 近所の綺麗な、エアコンの効いたカフェに入ると、1番安いコーヒーでも200円は超える。最低の値段が300円以上する場所もある。日本と何ら変わりないのである。  

 道端にある露天コーヒーですら150円を超える。もちろん100円以内で飲める、カンボジア人にとってのソウルドリンクはあるが、日本ですらコンビニのコーヒーは100円である。

 生活が苦しく、「途上国に住むべきなのでは」と考えたこともある私はその考えを即刻撤回した。カンボジアですら生活が苦しくなるという矛盾に満ちていたからである。

 おしゃれなカフェに行かなければいいと言われてしまえば、そこでおしまいではあるがそうもいかない。あまりの暑さに体が蝕まれてしまう。

 

 また、今年から労働者は、国の健康保険に毎月拠出することが義務付けられるようになった。この健康保険は医療措置を受ける際に資金を節約することができるものの、多くの労働者は給与が増えた分のほとんどが費やされるようになったと感じている。

 カンボジア政府は二〇一五年に、最低賃金の上昇分が家主に搾取されないようにするため、家賃管理法を施行することでこの問題を解決しようとしたものの、法律の強制力は弱く、家賃の上昇を止めることはできなかった。その生活苦はいったいどこからきて、どこへ向かうのだろうか。

 

 

「工場で働くことは安全で安心」

 

 まずはとにかく同じ時間を過ごすこと。それが私のモットーだ。言語や国籍は違えど、同じ人間。自分の都合だけを相手に押し付けることはどんなことであれ、相手は離れていく。

 相手に自分の志を伝えなくして、その上でできた信頼なくして、いきなり何かをお願いするという大失敗を犯した20歳での経験は確実に生きている。まずは、きちんと対面し、デートをしよう。現地の人を頼ることしかできないのだ。わたしには。だからこそ、丁寧に、丁寧に、相手のことを、全力で思いやる。  

 早速、以前プノンペンで会った1人の女性に「会いたい」という旨の連絡をすると、快く「いいよ〜」と返してくれ、翌日会うことになった。

 お互いに、お互いのことをたくさん話した。カンボジア、そして日本の国について思うことをたくさん話した。すうちに相手がどれだけの敏腕ビジネスマンかわかってきた。たくさんの場数を踏み、たくさんのことの当事者になっていることがわかった。お互い、話したいこと、聞きたいことがヒートアップし、話は尽きなかった。翌日も会うことになり、話を聞いた。

 彼女は現在、パン屋の社長をやっている。彼女は、「私は工場で働いていました。工場のオーナーに近いポジションである管理スタッフも経験しました」というまさに工場での労働者であった。

 長期に及ぶインタビューで描き出された彼女の生涯は、まさしく今のカンボジア人を代弁しているようであった。

 

「14歳、二〇〇六年のときに私は姉のように、縫製工場で働くことにしました。私たちの家族にお金はなく、母に『あなたの妹と弟にかけるお金もない。学校もやめたら?』と言われたので、私は自分のお金を自分で稼ぐしかありませんでした。私は学校に行って勉強したかったので、仕事を探していました。

 14歳の私にとって、縫製工場は、とにかく安全な場所でした。よく子どもたちは、路面で何か物を売っていますが、そうすると、知らない男の人に襲われ、どこかに連れて行かれる恐れがあるため、工場で、多くの人に囲まれて働くということは、非常に安心でした。

「14歳では本来働けないから、私のIDカードの生年月日は、いくらか本来より早めの数字でした。そういう人も多かったですし、今でもそういう人はいます」

 カンボジアの労働法は、15歳から雇用することができるが、18歳未満の子どもには、軽作業しか行うことができない。そして夜間の仕事は禁止されている。

 

 「工場に入った当時の給料は月25ドルでした。けれど、前に話した通り、当時は物がとても安かったので、前よりは良い生活をできるようになりました。3ヶ月後には30ドルになりました。工場のオーナーは中国人でした。当時、すべての工場は中国でした。なので、私たちカンボジア人は、中国人がいなかったら、何の仕事もありませんでした。

 最初の仕事は、コントロールチェックといって、出来上がった製品を出荷する前にチェックする仕事です。例えば、少し糸がほつれていたらその部分をカットしていました。最初は仕事のやり方が全然わからないのに、いつもスタッフに怒られて、『なんで働いているんだろう』と毎日毎日泣きながら仕事していました。けれど学校へ行くために頑張るしかありませんでした」

 

 

「15歳頃に、私は家を出て、一人で暮らすようになりました。私は家族、両親に、大切にされていないと感じました。下の子どもたちばかり面倒を見ていて、とても寂しかったのです。14歳の時、私は特に怒ることもなく、母に尋ねました。『どうして私とはあまり話してくれないの?』母は何も答えませんでした。

 それもあって、近くの教会に住むことにしました。クリスチャンになり、4年間お祈りもしました。外国の人がたまにきて、私に少しばかりのお金を恵んでくれました。

 縫製工場では、毎日毎日、お給料日を待つ日々、同じワーカーたちともそればかり話していましたが、日が経つにつれて縫う技術が上がり、楽しくなっていきました。靴やカバン、服を見るだけで、どのように作られているかわかるようになったり、いろいろなことを工場の人たちは教えてくれました。

 工場で一人一人がいくつ、何分で製品をつくるか把握するためにタイマーで時間を計るのは普通にあることです。ノルマがあります。

 また工場は、綺麗ともいえないものでした。けれど、それは工場の責任だけでなく、ワーカーさんたちの責任でもありました。なぜなら、私たちは教育を受けず、田舎で育ちました。だから、トイレの使い方などもわかりませんでした。トイレの臭いが充満するのも、私たちのせいでした。自分たちの機械を壊れたまま使用して怪我をするのも、私たちは自分のせいだというのはわかっていました。

 それぞれが、自分の機械に責任をもって使うということは当たり前でした。

なので、修理を自分でしたり、わからなければ他の人に聞くことを自分でしなければなりませんでした。修理しないまま、機械を使うことは、危ないと考えるのは当然です。それを使ってしまうのは、それぞれのせいです。

 通勤も、今は非常に危ないのではないかと言われているのを聞きましたが、私も、他の人たちも、あまり気にしていません。私たちは、工場のお給料を、できるだけ家族に送りたいのです。なるべく余分なことには使いたくないのです。だから、家から工場までの移動でトラックの荷台にのることは普通です。

そこで、『工場が安全な一人一席あるバスをつくってくれ』と要求したところで、工場は「もしあなたがここで働きたくないのであれば、出ていけばいい」と言うでしょう。だから、私たちは、このようなことは特に口にするようなことでもありません。

 お昼の休憩の時間は1時間でした。遅刻したら1ドルくらいお給料からひかれてしまいます。私が働いた二個目のppsezの会社は、給食があり、2000リエルくらいでご飯が食べられました。今よりもずっと安い値段です。

 そしてその距離は近かったので、とてもリラックスできました。そういった工場ばかりではないので、そうでない工場で働いていたときは、1時間は短く、あまりリラックスできませんでした。出来たばかりの工場で大きくない工場は、従業員もいないので、給食は用意されません。

 14歳から18歳まで、7時から11時まで高校に通いながら、その後、ワーカーとして働きました。それ以降は工場のスタッフとして、管理の仕事をするようになりました。そのため、何が起きているのか、全てわかるようになりました。ワーカーのときは全くわかりませんでした。この頃から私は「社長になりたい」と思うようになりました。

 皆さん知らないと思いますが、カンボジアで作られているすべてのものが、Made in Cambodiaになるわけではないんですよ。私たちの工場では、オーナーが中国人だったので、中国に一度出荷され、Made in Chinaと表示され、商品が売られていくのです。その仕組が書かれた書類を私は出荷管理など様々な仕事をする上で見ました。びっくりしました」

 

彼女は、縫製工場だけではなく、過去の苦しい、恐怖の体験をも口にしてくれた。しかし、この言葉たちが、私を新たな世界へと導いてくれるような、そんな感覚に陥った。私は、縫製工場における労働者の問題は、その問題だけの話だと、勝手に思い込んでいた。けれど、彼女たちに根底にあるもの、若い人たちの根底にあるもの、それは何なのか、少しずつ理解するようになっていくのである。

 その後彼女は21歳で仕事をやめ、自分の溜めたお金で大学に通った。卒業後、また別の工場でスタッフとして働き、2年経ったあと、パン屋兼カフェの現地責任者となり、現在は経営者として、3人のスタッフを抱えながら業務を行っている。彼女は叶えたのだ。社長になるという目標を。

 

 

ユニクロ下請け工場の実態

 

夜20時。一人で入ることなど私にはできないお店での取材だった。日本語の話せる女の子たちとお酒を飲んだり、カラオケができるお店、まるでキャバクラのような、しかし、落ち着いた空気が漂うバーで待ち合わせていたのは、工場で生産管理を行う中国人男性、Yさん。

「初めまして、田中です」と、日本語の話せる優秀な彼に挨拶をし、「では早速ですが」と仕事のお話をした。

どんな働き方をしているのか、今まではなにをしてきたのか、横で聞こえる日本人駐在員たちの歌声をかき消すような、大きな声で会話を続けた。

YさんはユニクロとGUも知っていた。というより、ユニクロやGUをつくる工場そのもので働いていたのだ。

1500を超えるカンボジアの工場の中で、ユニクロが提携している工場は、たった4つしかない。なんという奇跡だろうか。

お酒を飲んでいるときは、まだそのことに気がついておらず、現地に行って私は知ることになったのだが。

会話の中で、Yさんは

「明後日の朝戻るけど、一緒に来る〜?」

という軽い感じで誘ってきたので、取材も煮詰まっていたしありだな〜と思い「一回考えてまた返事します!」

とあいまいな返事のまま、夜0時頃、御礼をいって自宅に戻った。ユニクロを作っている工場と知らずに。

翌日、改めて行きますというメッセージを送り、翌々日、朝の9時にプノンペンで人気な日本のスーパー、イオンモールで待ち合わせ会社の車でバベットに向かった。そこには、会社の同僚であるUさんも同乗していた。

彼女がスーパーマンだということはその時点では知らず、工場でその働きぶりに驚かされることとなる。

ぼこぼこな道を全速力で進む運転手の恐怖運転に、うかうかと眠っておられず、かといってすることもないので本を読み気持ち悪くなるという中、工場近辺に到着した。

2人が住むという中国人の家が立ち並ぶ自宅で、少し休憩したあと、早速工場へと向かった。

すると、私の持つ資料に載っているユニクロの工場を示す名前の工場に入っていったのだ。「まさか」

そのまさかであった。

広大な敷地にあるいくつかの工場の1つを見学していると、私はついに目にしてしまった。あの、日本の店頭に並んでいるものだった。タグや値段含めたそのままのカタチをしたものが、そこにあるのだ。本当にここが生産地なんだと心躍り、「今私が身につけている商品全てがそのブランドなんだよ」というアピールをしたら、周りの人たちは優しく笑ってくれた。

布の切断から、順を追って生産ラインをチェック、徐々に出来上がっていくその商品をこの目に焼き付けることができた。しかし、私の仕事は、生産していることをチェックすることではない。きちんと疑問に思っていることを当事者たちにぶつけ、そしてくまなく工場の様子を見るということだ。

それにしても、私の最も強く、そして深く残った印象、それは、異常なまでに「清潔」であるということだ。正直、糸くず1つ落ちていない、そんなイメージと化すほどに床は綺麗に片付いており、働く女性たちも私を見ると笑顔を返してくれる。

これまでも様々な工場に足を運んできて、確かに似たような反応であったが、日本でのファーストリテイリング批判に比べてこの状況という落差に、私は舌をまいた。さらに私は聞けば聞くほどに、日本でいかに適当な事実なき批判が繰り返されていたか、思い知ることになる。

 

Poくんはこの工場にきて、2年になるという。

「ここの工場では、残業代は普通の時間の1.5倍。休日も1.5倍。繁忙期になると、夜から朝まで働く人たちも出てきますが、彼らは2倍、残業代がもらえるため、自分からすすんで仕事をする人も多いです。

基本的に、残業は強制ではなく、できる人を募集し、その中で、多くいる『残業したい人』が手をあげる、そんな仕組みになっています。残業できない会社を辞めて、残業できる会社を求めてくる人も非常に多いですから」

「24時間連続で働くことは一切ありません、そんな光景は見たことも聞いたこともありません」と労働者の誰に聞いてもそう答える。

「朝まで働く人もシフト制になっているため、ずっと働き続けることはありません。生産性も落ちるため、経営者にとっても、やらせたくありません」

ユニクロを生産するような大きな工場では、きちんとした経営ライセンスが必要になってくる。スタッフが何度も強調していたことは、工場には環境に対する厳しい審査基準が求められ、それをクリアしなければ、ユニクロのような大手のブランドの生産はできないということであった。

それだけ倫理が求められているということが、全面に彼らの口から放たれた言葉からにじみでていた。

ユニクロの下請け工場を批判する週刊文春の記事で、「スタッフが労働者に向かってハサミを投げつけるという話もあったのだが」

という質問を投げかけると、

「そんなこと見たことがありません。中国人のオーナーとかでしょうか?

 そもそも、投げつけるような人たちが工場にいることはありませんから。

多少、中国人の現場スタッフが、言葉でいろいろアドバイスしていることが、叱っているように聞こえることもありますが・・・」

とのことであった。

 あえて言っておくが私が取材した「この工場では」である。

また、日本語を駆使し、スタッフたちをまとめる労働者の1人は、工場内で結婚し、今は子どもを授かった。

「奥さん、どこにいるの?」と聞いたら、

「すぐそこにいますよ」と目をやると、本当に横のテーブルで、大きなお腹を抱えながら、働いていたので、話を聞いてみると、

「産休中の支払いは給与の半分をもらっている」

とのこと。

「この工場のおかげで奥さんを捕まえることができました」とにやける、という表現が正しいであろうか、嬉しそうな表情を見せてくれた。

生産管理を任されている中国人のUさんは、クメール語を堪能に扱い、カンボジア人と議論を交わす。出来上がった靴下やパンツを見せながら、「ここをもう少しこうしたほうがいい」「左右の長さが少し違うよ」などと労働者たちに指示をしていた。

彼女たちの優秀さに、私は舌をまいた。確かに、中国語は相手にとって、その話し方も声の大きさも、なんだか責められているような印象を受けることはあった。しかし、彼女の人間的な優しさは、共に移動し、自宅にもお邪魔し、話す中で、十分伝わってきた。

現地の人たちと現地の言葉で、お互い納得した表情を見せながら、議論を続ける様子を見て、彼らによって工場は支えられ、カンボジア人の労働者たちが、

「中国のおかげでこの国はここまで育ってきたし、今も支えられている」

と言葉を漏らす理由がなんとなくわかった気がする。

 中国に対して、あまり良い印象を持っていない私ですらその感情はひっくり返ったといってもいいほどの衝撃を受けた。

「中国によって支えられている」

はっきりと、カタチとして目に見えた現場であった。

 

ブランドは、どこまで責任をもち、どこまで工場に介入をしているのか、全くもってわからなかった。しかし、思いの外、企業は、深くまで入りこみ、指導をしていた。

アディダスやプーマ、ユニクロ、などのブランドは、工場まで指摘しにくるという。工場のスタッフ側の声では、「あーだこーだ言われて面倒くさい」と思うほど。

ブランド側の人間が工場に来る際、工場側が人権侵害を「隠す」ために、工場を綺麗にする。などといった先入観が走るのは、無論、日本での答えありきの情報や記事が流れるからであるが、決してそうではないみたいだ。

工場の経営者にとって、効率が落ち、受注が受けられなくなることは、結局のところ、「倒産」を意味する。ブランド側の現場を知らない無意味な指摘は、労働者たちの効率を下げる。家に帰るのに、遠回りして帰る、そのような、最適な生産を遠ざけていますと、工場のスタッフは答える。

ブランド側にとって、そこで人権侵害が行われているとなれば、ブランドを大きく傷つけることになるため、どうしても避けなければならず、工場を監査しなければならない。ここに、両者の葛藤が見える。

それでも強いのは、発注先である、ブランドだ。会社の喉元まで出かかった不満は飲み込まれ、ブランドの言いなりになることが多いのだという。工場にとって、率直な言葉で描くとすれば「邪魔」なのである。責任をもって、私たちにやらせてくれ。と、そんな彼らの心の声が、聞こえてきたような気がした。

総じて、これまでの通り、ユニクロを生産する工場であれ、どこであれ、これまで述べてきたことと同じであり、特別、ユニクロの労働環境を批判するようなポイントは、私の取材では見つかることはなかったという事実がある。これ以上、探ってももう出てこないし、むしろ、聞けば聞くほど、幸せになる、そんな工場見学であった。

 最後に付け足しておくが、ユニクロは価格の低い商品を日本で売っているから、働いている人たちの給料は安いと思われがちだが、実際私が入った工場で作られていたある日本のブランドは、価格がそこそこする中間層向けの商品を扱っていた。しかし、カンボジア人の人件費に関してはユニクロであろうがどこのブランドであろうが変らないのである。そのお金の差はどこにあるのだろうか。

 

 

これまでの事例で共通していることは、どちらにおいても言い分があるということである。

労働者にとっても、最低賃金の153ドルというお金が、多くもらっていると感じている人もいれば、少ないと感じている人もいた。それは、もっと服を買いたいと思う人がいれば、その額では足りなくなる。

日本でも、それは同じだろう。確かに、最低賃金をあげることができれば、労働者にとっては、よりよい生活を送ることができるが、賃金の是非については、はっきりと主張することは困難である。しかし、これよりも重要な問題の本質が次々と浮かび上がってきたのだ。だからこそ、その問題の根源を、綴り、主張してみよう。

 

縫製工場労働者にまつわる諸問題が生じた際に助けとなるのが、労働組合や、労働監督署だろう。日本でも同じである。

日本では、労働組合の集まった組織、日本労働組合総連合解、通称「連合」がある。その連合が発表しているホームページから「なぜ労働組合が必要なのか」ということがわかりやすく記されている。「そもそも労働組合とはなんなのだろうか」と思った私は調べることにした。

 

寄り添うふり搾取ビジネス

 

 

連合という言葉を耳にしたことはあるだろうか。2017年10月に行われた衆議院選挙で、小池百合子都知事が希望の党を立ち上げ、民進党が事実上分裂、立憲民主党が立ち上がりといった野党の混乱していたことは記憶に新しいと思う。そうした動きの中で、民進党をサポートしていた連合が、どこの党を支援するのか、貴重な財源となっていたため、その動きが注目されていた。その連合の会長が神津里季生氏である。

 日本労働組合総連合会の略で親しまれており、ホームページには、「すべての働く人たちのために、雇用と暮らしを守る取り組みを進めています」と記載されている。主に、大企業の正社員で組織されている。

 

なぜ、連合、労働組合が必要なのか。こちらも連合のホームページから一部引用してみよう。

 

 会社と労働者という関係では、会社の方が立場的に強いというのが一般的。そのため、ひとりの社員が、雇用条件などについて社長に直談判するには、相当な勇気と覚悟が必要です。しかし、労働組合であれば、働く人の代表という立場で、雇う側と対等に話し合える「集団的労使関係」を築くことができるので、働く人の意見を、職場に反映させることが可能になるのです。セクハラ、パワハラといった問題をはじめ、「賃金をもっと上げたい」「長時間労働をなくして、ワーク・ライフ・バランスを実現したい」など、職場環境をより良くしたいと願う人を支え、仕事にやりがいを、生活に充実感をもたらすことができるのが労働組合なのです。

 

 

労働組合は、「労働者の立場を守るもの」である。

前出の通り、労働者たちを守り、労働者たちに支持されていた大きな労働組合の代表、チェ・ビチェアが、殺されてしまった。これまでも労働組合は必死に政府との交渉を粘り強く続けてきた。

しかし、探っていくうちに、少しずつ、問題の光がつかめてきたような気がした。それは男性のAさんのこの一言だった。

「1番悪いのは労働組合でしょうね」

一番悪いのは労働組合!?

Aさんは経験談を話してくれた。

「労働組合のトップ2の人にお会いしたことがあります。その人は、元々工場の労働者でした。だから労働者の気持ちもわかる。大変なこともあったけれど、どうしても出世したかったから、スキマ時間をぬって英語を勉強した。

そして、労働組合に入り成果を出して、労働者を守りたかった。政府からの要望も間違っていることはNoと言いたい。そんなことを話していました。

感動して、その場で挨拶をし、別れる時、彼は、レクサスの中でも高級な車に乗り、去っていきました。愕然としました。彼のお給料は、労働者が組合に登録するためにかかるお金から出ているからです。これは立派な搾取ビジネスです」

労働組合は、自分の私服を肥やすために労働者を使ってお金を儲けようとしているのか・・・。どこまでが真偽なのか。

「また、デモをやる際、労組から労働者に日当が出ているのも確かです」。

「お金を渡すなんて話は当たり前だ」

と多くの人は口をそろえる。

野党側の労働組合が、「労働者は過酷な環境に身をおいている」ということを世界中に知らしめることで、次回の選挙への足がかりにできる。だから、労働者たちにお金を払って、デモ活動を起こさせるというわけだ。

 

労働者に賃金をあげる運動をしろとお金をばらまいて命令するにも関わらず、どうしてそのお金を労働者たちに回さないのか?

社会の矛盾に私は立ち向かうことなどできないのだ。この国の日常をただただ見つめていると、「お前はもうここにきても意味がない」と突きつけられたような感覚に陥る。

これが私たちの国のシステムなのだ、と。お前が邪魔をして入り込む余地などないのだ、と。

 

 

 

労働組合による政治利用

 

 しかし、倒れてしまう労働者たちがいるという事実は決して忘れてはならない。彼女たちの生活水準をあげることは必須だし、栄養や睡眠をとってもらうための環境づくりも早急に整備する必要がある。

その上で、私服を肥やし、労働者たちを駒として扱う人間たちをいかにして監視していくべきなのかを考えなければならない。

労働者を蜜のようにして寄ってくる人間たちをいかに減らすことができるかが労働者への本質的な保護につながる。それが私なりの答えなのである。

 なぜ、労働組合は工場を嫌い、なぜ工場は労働組合を嫌うのだろうか。

 

労働組合は、星の数ほどあるという。工場の関係者によれば、

「労働組合に関しては、2種類あります。1つは普通にあるもの、もう1つは政治絡みのものです。少なくとも工場1つにつき、組合は1つなければなりません。政治絡みの組合は、いくつかあって、基本的に賄賂をもらっています。もちろん直接的にではありませんよ。労働者にお金をわたし、仲間を誘導し、デモなどの運動を起こさせるためです。とにかく与党を批判したいわけです。政治利用のためです。」

ここでも、また同じ着地点となる。

またこんな話もある。

「政府から直接、工場に対して何か言ってくることはありません。しかし、工場側にとって困っているのは、政府と手を組んでいる、労働組合や軍隊、警察などが「消化器をここにいくつ置きなさい。そしてその消化器はここから買いなさい」と指示してくることです。あまりにしつこいので、私たちはそういったものに対処するのが手間であり、めんどうなので、わかった、買うから。と、仕方なく、買います。ときには、コーヒーを飲みたいから、2000リエル、などと、わけのわからないことを言ってくる場合もあるので、もう笑えてしまいます」

 

「労働者が怪我をした場合、労組は工場側が治療費を払えと要求します。こっちとしては、もう労働組合の人間には来てほしくないし、面倒なので、仕方なく払っています」

 労働者が倒れれば倒れるほど、彼らの私服は肥え、車が新しくなり、お腹は膨らんでいくというというのが、これまで何人もの経営者に聞いた中での着地点なのである。労働組合の私服が超えるシステムは闇の中だ。

 

 

 

強者が振りかざす斧

 

だからといって、全ての労働組合がそのようなことを行っているわけではない。真剣に労働者のことを考え、取り組む人も少なからずいる。それは、冒頭に書いた殺害されたユニオンリーダー、ビチェアがまさにそうだった。

その労働組合を設立すると、なると省庁の認可が必要となる。

今度は、逆の立場だ。

ここでは、このような労働組合を避けるために、設立を防ぎたい人間たちによって、つくりあげられた複雑なシステムには多くの批判が生まれている。

 

二〇一三年一二月、労働者が賃上げを求めてデモを行ったことにより、煩雑な労働組合登録手続きを導入した。これによって、オーナー側は労働組合の結成を阻止したい狙いがあるという。

「労働組合を設立するには、司法省から犯罪記録がないか確認する必要があります。そのための証明書を発行するのに1〜2年もかかります。

 スペルを含めた少しの間違いを都合よく見つけ、申請を遅らせ、再度提出、拒否を繰り返すことで、組合への登録を妨げています。

このやりとりで数ヶ月はかかります。また登録後も、登録申請から2ヶ月以内に全ての組合が登録されているが、ライセンスが発給されなければ、権利を行使できないとしています。

また、政府は、司法手続きなしに都合良く労働組合を廃止することができます。なぜなら、カンボジア政府が経済的な協議やカンボジア王国の利益に損害を与えた行為を引き起こしたとみなした団体や組織を廃止できるという曖昧な定義が存在するからです」

政府にとって1番恐れるべきことは、仕事を発注するブランドが、より安い賃金を求めて、他国へ進出することである。そうなるとカンボジアの経済が伸び悩み、労働者が職を失い、国内情勢が不安定になる。すると政府への当たりが強くなる。もちろん、GDPなどの成長率を国際社会にアピールするための指標が下がっていくことに対する懸念も考えられる。

そのため、こうした規制を行うことで、労働者の規制を行っている。

二〇一四年、カンボジア労働省は労働環境の監視を改善するために、政府労働監督官という新たな機関を設置した。しかし、調査内容に関しての透明性はなく、労働者たちからの信頼はない。

このように、それぞれの立場の欲望が交じりあっているというわけだ。

腐敗と汚職に、もう労働者や関係者たちは、怒りを通り越して飽々しているのだ。

労働組合という存在は、労働者にとって、本来ならセーフティーネットになるべきものであるのにも関わらず、恐怖となる。なぜならば、オーナーが、組合に加入していると耳に入れば、契約更新や、採用されない事もあるからだ。労働者にとっては、現地の活動家や、ジャーナリストに会うことも危険性をはらんでいる。それは私自身も間違いなく対象となるのである。

そのため、解雇される恐怖から逃れられない労働者は、容易に労働組合に相談することができない。ましてや、労働者側に、契約や金銭など法律に関する知識があるわけでもない。専門家に相談するための十分な賃金もなく、ただひたすら目の前にある仕事を我慢してこなしつづけなければならない。抗議すらできない彼らにとって、限界を迎えたと示すものは、「失神」という手段になるのだ。

 

これまで記した通り「では仕事をやめればいいのではないか」

という意見もある。しかし、その言葉を浴びると想像できること自体、彼らにとっては負担となる。強者の論理であると思い込み、「私たちには無理だから」とその場で思考がとまり、生活を受け入れる。

私だって、辞めたいなら辞めればいいとも思うし、その一方で、辞めてしまったら働く場所がなくなり、生活できなくなってしまう。

彼らの本当の気持ちなどわかるはずがない。それでも私は聴くしかない。私は、労働者たちの状況に立っていたい。

やめたいならやめればいい。強者が振りかざすこの大斧は、意外にも多くの労働者たちは理解しているのだ。

 彼らが仕事をしたくても仕事がないから、今の仕事があっても辞めることはできない。だからかわいそうだ。人権を守ろう。と私たちは考えがちだ。

もちろん、労働環境は守るべきだし、経営者やオーナー、ブランドが好き勝手やっていいといっているわけではない。その批判をするよりも、先入観をとりはずすと前向きに頑張ろうとする彼女たちの、そのひたむきさをサポートしていく動きに光をあて、大いに支援していくことこそ、実は彼女たちにとって、今の生活を抜け出す、そしてこれからも役に立つような、それこそ「生きる力」につながるのではないか。

そんなことを、私は、プノンペンの工場の外で、一人、座り込みながら考えた。

 

 

 

 

「小さな声」という幻想

 

 

私はもう1つ、頭の片隅に覚えた違和感が拭えなかった。

 果たして、彼らの声は、本当に声をあげることのできない、小さな声なのだろうか。果たして、私は彼らの声を伝えることで労働者の人権問題について取材をしたといっていいのだろうか。

さらに取材を重ねるしかない。

 そんなことを考えていたとき、もう一つ聞き逃せない出来事があった。労働者にとって、絶望の淵に落とされる瞬間があるという。それは、賃金を払わず会社を潰し、逃亡してしまうオーナーが後を絶たないということだ。

 

「オーナーが逃げてしまうことは本当によくあることなのです。会社を潰すと厳しいペナルティを負わされます。倒産するより、夜逃げするほうが楽というわけです」

確かに、その通りなんだが、それで許されるべきなのか・・・。

私の取材に答えてくれた男性のさらっと当たり前のように発した言葉は、私を悩ませた。

それによって賃金未払いのままどうしようもなくなった労働者たちは自殺を計る。こんなことあっていいのだろうか。

工場が突然なくなったときのために、失業保険を用意されているわけでもない。これは、国として大いに問題があるのではないか。しかし、政府や官僚は全く無関心だと訴える人もいる。

多くの労働組合は、経営者が工場を買い入れ又は借り入れる前に、保証金の支払いを強制する事で、国外退去の際もある種の補償金として補填できるような仕組みを政府に陳情している。

労働者たちの多くは、お給料の支払いがないと気づいたときには、すでにオーナーがいなくなっているという。そこで初めて気がつくわけだ。どうしようもなくなった労働者は、自らの賃金の補償を求め、工場で抗議活動に出る。

労働法の規定によれば、工場の閉鎖後48時間以内に最終賃金と退職金を受け取っているはずであり、家族の生計を工場収入に頼っていた労働者たちは心理的、身体的、そして経済的にも悲惨な状況に陥っている。

工場オーナーの逃亡以降、自殺を試みる労働者もいる。

あるいは、現地紙によると、 100名以上の工場労働者は数週間に渡り、プノンペンの地方裁判所と、同工場から長年製品を購入していたイギリスのショッピング企業マークス&スペンサーオフィスの前で抗議活動を行ったという。

カンボジアでは昨年、140の繊維工場が操業を停止しているといわれている。その一方で、その閉鎖数は問題ではない。新設される工場のほうが多いため、労働者も就職できる可能性は高く、衰退していくわけではない、と労働省は発表しているものの、果たして、真実はどうなのだろうか。

工場の新規開業数は閉鎖数より多く、縫製産業は好調と言える。

このように、労働省のコメントは多くの人々が憂慮するカンボジアの縫製産業の状況とは対照的である。

「労働省も私たちの訴えをたらい回しにします。彼らのことは全く信用できません」

こうして新しい仕事を探すしかなくなるのであるが、この対応を許してしまえば今後も同じことが際限なく起きてしまう。

 

工場の閉鎖は免税のため?

 

先ほど記した通り、カンボジアでは、工場の閉鎖する数が多いという批判を受けている。本来ならば、業績悪化による倒産、もしくは、より安い人件費を求めて他国に進出するという点において、カンボジアという市場に危機感が持たれるが、決してそういう一面ばかりではない。

工場の免税期間が終了した後に工場を閉鎖するという業界全体の慣習がある。

「多くの工場が5年間で閉鎖し、同じ場所や別の場所でまた再開します。別の名前ではありますが、同じオーナーです」

「カンボジアは、5年まで法人税が無料」だからであるという。

しかし、企業の身勝手さには、スタッフやワーカーたちが怒るのは当然のことであろう。なぜならば、皆勤や勤続の手当がなかったことにされてしまうからである。

 その一方で、カンボジア縫製協会の会長は「工場は再オープンしていると組合側は主張していますが、我々の会員数が減少していることを示しています。

会員数が減少しているのは、注文数が減少している一方で最低賃金が上昇し続けたため、利益を上げることができず、閉鎖を余儀なくされたためです」と話している。

だからといって、この問題全てをフン・セン首相が扱えるわけではないという。工場のオーナーと労働者の関係に口を挟めることとそうでないことがあるからだ。しかし、労働者によれば、「フン・センが言わないと誰も動かない」というのも現実としてある。

 

 

 

工場のオーナーやスタッフ側にも、労働者を雇う上で、納得のいかないところもあるはず。労働者側の意見だけを通すわけにはいかない。そう思い、率直な意見を聞いてみた。

 

ー工場の作業は何時頃に終わるんですか?

「地方に工場があるので、労働者の家から遠い。だいたい1時間〜2時間、トラックでかかるわけですから、労働者は朝の4時、5時に起きるのが当たり前になるわけです。そのため終わりの時間は1番遅くとも、18時半には撤収するようにしています。」

 

ー閑散期もあるみたいですが、そういった場合はどう対応するのですか?

「閑散期が、だいたい春と秋。なぜなら、カンボジアには、その時期に休みが多く、ブランド側も発注できないわけです。その間、違う国の違う工場とやりとりをしています」

 

ー労働者に対して要求や不満はありますか?

 

「カンボジア人は進歩することを覚えるべきです。工場にきたときに、仕事の仕方を忘れてしまってできないということもよくおこります」

また、「不良品率が異様に高いです。不良品の倉庫があるくらいです。その不良品は1キロいくらなどでまた別の場所と取引しています。だいたい10%の不良品率ですがこれは異常です。」

「商品を盗んで、売り物にする労働者もあとを経ちません。もちろん発覚したらクビにしますが、全てを確認することなどできません」

 

 

 

最低賃金を求めて闘う労働者、それを政治利用する野党、発砲を正当化する与党、労働者を利用する労働組合。

政治に有利にするために、労働者にお金というにんじんをぶらさげ、その上で、血が流れることすら厭わない。利用されて当然なのか?利用されるほうが悪いのか?

それが政治なのか?

どの問題についてもそうだが、外国から得た援助は、次々と政府や中間管理職の人間の懐をあたためていく。なんともやりきれない悔しさが残る。

これが、社会、世界の当たり前なのか、と。

どれほど、過酷な労働環境を取材できたら楽だったか。

前持って入れた知識通りに、そのピースがあてはまってくれたらどれほど容易に進んだだろうか。そんな悪魔な自分がふとしたときに出てくる。

 もちろん、数々の苦しい想いをしてきた人も目にしてきた。彼らの叫びをそのままストレートに伝えなければ、彼らの声は薄まってしまう。そんなことも脳裏によぎった。けれど、本当にそれでいいのだろうか。1つの事実に目をつぶって伝えることは簡単だ。けれど、自分の気持ちはそれでいいのだろうか。

取材でお世話になった人たちを裏切ることにならないか。そんなことを反芻する。

 

客観性とは言いつつも、客観性なんてあるはずがないのは当然だ。

行く場所や聞く人など、結局自分のフィルターを通している。いや、正確に言えば、フィルターを通すべきだ、あとは受け取る側の情報リテラシーに任せよう。だから、リテラシーを高めることが大切だ。というもっともらしい、けれども、いかに投げやりで無責任で思考が停止してしまうようなこの論理が横行している。

事実を伝えることは大切だが、その事実をいかに切り取り伝えるかも大切。これまでの人たちはそうして情報を伝えてきたのだ。

けれど、自ら知ったことをなかったことにして、自分が書きやすいからといって描いた片方だけの事実によって、より多くの小さな声がかき消されてしまう可能性があるのではないか。事実なき批判によって、誰かへ被害がいってしまったら。

工場のオーナーや国、ブランドをただ批判することの恐怖を感じるようになった。

 

彼らに、しつこく、それでもしつこく、話を聞かせてくれと話しかけてきたわたしに耳にも、彼らの不平や不満は聞こえてきた。それでも、だから、労働侵害だ。と声高に叫ぶのは、少し違う気がする。

私がやるべきことは、いや、私だからこそやるべきことは、素直に、わざわざ若造のわたしに時間を割いてくれた多くの人々の答えてくれたその言葉たちを、一つ一つ遺していくことなのではないか。

ずっと昔から、工場でものを作っている人たちがこの国には多い。その理由は一つではない。けれど、いま世界がこういう状況の中で、この国が急速に姿を変えていくこの状況の中で、「何年たっても工場の様子は変わっていない」はずがない。

 

「常に権力じゃない側にたつのがジャーナリストだ」というイメージを私はもっている。何があろうと市民の言い分を伝える。

これが、「弱者に寄り添うのがジャーナリストとして美しいのだ」というのならば、私は、ジャーナリストではない。

弱者に寄り添うことがジャーナリストの基本だというのはわかる。権力に立ち向かうのもわかる。けれど、私なりに持っていた違和感がある。そして同世代の友人に聞いたこともある。

「常に物事を否定だけするその姿勢が嫌いだ」

多くの仕事は社会をよくするためにある。私はこの世の中をよりよくしたい。そのための手段として私はメディアに興味を持った。

なるべく多くの角度から、例え支持者がどちらであれ、自身がどちらからも否定されようとも、常に事実をつかむ努力をしたい。

この世の中に「右」も「左」もないのだ。そういうレッテル貼りをしておけば、格好がつくのだ。

余談だが、ある大学生が、ネット右翼、いわゆる「ネトウヨ」のことを「ネットでうようよしている人のことでしょ?」と言ってきたときは、腹を抱えて笑ってしまったが。

 

異国で働く、私たちが気に入ってお金を払って選んだ服をつくった「私たちのパートナー」がどんな生活をして、どんなことを想い、何を楽しみに暮らしているのか。ただそれだけでいい。そう思うと、少しばかり肩の荷がおりる。

私は、一挙手一投足に気を配りながら、事実に基づいて丁寧に取材を重ねてきたつもりだ。しかし、「だから真実が見えてきた」という世の中そんな美しいものではない。ただ、1つ言えることは、相手から紡がれるその言葉たちが、私の脳に刺激を与える。知らなかったことを知るということが快感なのだ。

 横にいる彼や彼女は何を考えてドブ川を眺めているのだろうか。聞くまでもないそのことを考える。現地の有名らしい音楽と子供の遊びの声が夜遅くになっても耳に入ってくる。

 

 

 

 

 

 

「はっきりいってそれだけお金をもらっていれば、生活には全く問題ありません。もっと低い人たちなどたくさんいますから。

 縫製工場で働く人たちのお給料はいいです。彼らは技術職ですから。誰でもできるものではありません。だからこそ、きちんと最低賃金が保証されているわけです」

 ふとした瞬間に思い出す。

「最低賃金は、縫製工場の労働者だけに適用されていたんだ・・・」

最低賃金が保証されている人がいるということは、最低賃金が適用されていない人もいるのだ。いや、されていない人のほうがこの国には多いのだ。

縫製以外の仕事において、どんな賃金で働かせようとも法律違反を犯したことにならない。

 

ニュースになるのは、縫製工場の労働者ばかりだが、ニュースにならない人たちも大勢いる。

私は常に葛藤していた。どの立場に立って発信するべきなのだろうか、と。

しかし、それを考えることは私の力では到底及ばなかった。だから私はあらゆる人の立場から見てみるしかなかった。それが結果的にあらゆる発見へとつながった。

 

決してこれはファストファッションや労働環境だけの問題ではない。国内だけの問題でもなく、世界の問題でもある。そう思ったのは、アメリカの外相がカンボジアに訪れた際に、救済を求める人々が結集したことである。これが国際社会で問題を解決していくということなのか、とそのとき初めて外交の重要さに気がついた。と、同時に、私たち日本人、私たち日本は、このカンボジアという国を始め、どこまで監視できる役割を果たしているのだろうか、と思わざるを得なかった。カンボジア人が求めているのは、「変化」だ。彼らは国際社会に助けの力を求めている。

現在、カンボジア政府は、いざ何が起きた際に取り締まれるよう、様々な法案の種を撒き続けている。例えとしてNGO法という法律をあげてみたい。

噛み砕いて言えば、国際NGOなどカンボジアで活動している海外の団体を、政府の不都合があった場合に、撤退を強制できるというものである。

その目的は、市民組織の権利と自由を保障するとともに、国際テロ組織や国際犯罪組織への資金の流入を防ぐことにあるという。しかし、野党や市民団体は、結社の自由を侵害し、組織に対する政府の管理を強化するものであるとの懸念を示している。

他にも全ては書ききることはできないが、もう一つだけ、カンボジアの状況を記録したい。

プノンペンにあるボレイケイラ地区では、昔、HIVの巣窟となっており、そこの土地を埋め立てたい政府と、外国企業が結びつき、そこに住む人々を暴力を持って強制的に追い出し、家は壊され、警察や軍隊と市民は衝突、何人もの人々が血を流してきた。政府のその市民に対する補償はあまりにひどく、市民たちは10年以上も抗議し続けている。

怒りのやり場がない彼らの表情は、覇気がない。それを政府側は狙って沈黙を続けてきた。だから、私がその土地を訪れたとき、何十人に囲まれ、連絡先を教えてくれと頼まれたこともあった。

彼らにとって、わずかな可能性である解決の糸口をなんとかたぐりよせたい、そんな気持ちだっただろう。

このような出来事が、私をこの国を追いかけ続けたい理由になっていく。私は、彼らから少しでも託された希望を、少しでもどこかに届けなければいけない。

 

 2017年5月1日、国際労働者の日、メーデーとも呼ばれるその日に、およそ3000人の労働者、その関係者たちが、大行進を行った。

「妊婦への差別をやめろ」「労働者の権利を守れ」

あチェンもこのデモに参加していた。「どこの誰に言おうとも、誰も耳を傾けようとしない。それならば国会議事堂の前で、声をあげるしかない」

ちまたでは、「日当をもらっている」と噂を流す人もいる。確かに、嘘ではない可能性も高い。だからといってなんなのだ。いいではないか。

自らの生きる権利のために。そしてなによりこの社会を変えたいと、これまで声をあげることすらできなかった人たちが、勇気をもって立ち上がった。

「自国で、二度と同じ大きな過ちを繰り返させない」

彼らの気迫は、強く、しかし一歩ずつ、この世の中を動かしている。その姿を見て、どうも涙をこらえきることはできなかった。

 

 総じて、これまでの取材は、私が1人でばかみたいに熱くなっているだけかもしれない。けれど、私は根拠のない自信がある。というより、もう常日頃から、起きている暗殺を見れば、その1人1人の命が亡くなっている状況が、あまりに恐ろしく、これからも起こる可能性があると考えると、より恐ろしく思えてきてしまうわけである。私の予想通りになるとは限らない。

けれど、もしあのとき自分が伝えることができていれば。皆が様々な情報について知っていれば。あの人は死ななかったのに」と思うことだけは勘弁である。

悲観的かもしれないが、事が起きてからでは遅いのだ。

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